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「そんなつもりはなかった」という思い

以前もnoteに書いたけれど、週末になると必ずと言っていいほど困る問題があって、それは子どもたちへの対応だった。

平日は学校で疲れているのだから、休日は楽しいことをさせてあげたい。その思いが「休日は子どもたちを連れて出かけるべき」に変化するのは異様に早かった。

私の中で根強くあるのは「休日=出かける」なのだけど、実際にそうやって育てられた覚えはない。私の両親はどちらもサービス業をしていたため、平日休みの人間なので、土日が休みの私とは休みが合わない。そのため、土日にどこかへ出かけるといったことを私はしたことがない。

もしかしたら土日に一人で家に居ることが淋しかったから、そういった思いを自分の子どもにはさせたくなくて、休日にはどこかへ出かけて楽しませなければいけない、と勝手に思っていたのかもしれない。

しかし我が子たちは、二人とも休日だから家で過ごしたいと言うである。平日は学校で、好きなことをする時間が少ない。休日ぐらいは朝から自分のやりたいことをしたい、そう言って家から一歩も出ようとしない。そしてそれがとても楽しいらしく、朝から晩まで休憩をはさみながらではあるものの、ゲームやYouTubeなどで楽しい時間を過ごしている。

そして私はふと気づいた。休日に出かけたかったのは私のほうなのではないか?家に居ることを苦痛に感じているのは、私だけなのではないか?

私にとって「家」というのは、一人で長時間を過ごす場所であり、淋しくて苦痛な場所でもあった。だから誰にとっても「家」がそういう場所なのだと勘違いしていたらしい。

そのことに気がついてみると、今までの私はいかに自分本位の考えを子どもたちに押しつけてきたのだろうかと途方に暮れそうになった。子どもたちのためを思って外出しようと思っていたけれど、本当は自分が家に居たくなかっただけだし、家に対する否定的な感情を消化できていなかった、自分自身の問題だったのにもかかわらず、それを子どもたちに押しつけていたんだな、と反省した。

我が子であろうとも、本当は何を望んでいるのかということを理解するって、とてもとても難しい。言わなくても分かることだってもちろんあるけれど、そうやって察することを当たり前だと思い生活していると、子どもの考えがすべて分かっているような気持ちになってしまうのだ。でも本当はそんなこと無理な話で、心の奥底にある感情にまで気づけるわけじゃないのだ。

子どもの「ため」、相手の「ため」、そういう「ため」が登場してきたら、自分本位になっている可能性がある。誰かの「ため」と思っていることは、結局のところ、自分が勝手に相手のことを想像して思いついたことでしかないし、お願いされたわけでもなく、善意でやっていることになると余計に相手の気持ちを無視した何かが生まれ、そして相手にとっても自分にとっても嫌な結末を招くのではないか、という気がしてならない。

押しつけるのはやめよう。そして相手の「ため」もやめよう。結局は空回って終わるだけだもの。


昨日の読書は『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

元底辺中学校の見学をして、その中学校を気に入ってしまった母。そして息子はその中学校に通うことを決める。

母親である著者のみかこさんは、自分が元底辺中学校の良さを何度も口にしたことがきっかけとなって、息子は中学校を決めてしまったのではないか、と思う場面がある。そんなつもりはなかった、息子には自分で自分の行き先を決めて欲しかった。

この「そんなつもりはなかった」というのは、子育てしていると頻発する事案だなと思っているために、何だか他人事とは思えない出来事で心に残った。

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