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こたえはからだが知っている

「からだの声を聴くこと」が大事だといくらいっても、たとえば人間関係の悩みを抱えているときに、「からだ」に意識を向けるのはなかなか難しいものです。

私たちはどこかで「自分のからだの内側」と「自分のからだの外の世界」を分けて考えていて、自分を悩ませる問題やトラブルは「自分のからだの外の世界」で起きていると思いがちだからです。

人間関係や環境の問題は、からだの外の世界で起きている。だから外の世界にはたらきかけるべきなのではないか。相手や状況を変えれば問題が解决するのではないか。そういう風に考えます。

だから世の中には「人の気持ちを読む」「人に◯◯と思われるようにするには」というハウツーが溢れています。ニーズを汲み取り、それを満たせる自分になることで、ひいては自分の評価を高める。そうして自分が抱えている悩みや問題を解决するというやり方です。

自分の外の世界で起きている問題は、あくまでも外の世界で解决する。

多くの人がこのように考えるので、「自分のからだに関心を向ける」という最初のステップを阻む高い壁にもなっています。

悩みがあるときに「あなたのからだの声を聴いてみて」と言っても、どうしても外の世界が気になり、相手や状況をなんとかしようと考えてしまい、自分のからだの内側にフォーカスするということができないからです。



あるいは、自分の不足や未熟さを見つけ、それを埋めたり改善したりすることで問題を解决しようとする場合もあります。自己啓発や自己改革が、人生のどこかの時点で必要になることもあるかもしれません。

でもそれが「外の世界で、他人から評価されるため」であるかぎり、悩みは続くものです。

ひとつの悩みが解决されたように思えても、また別の悩みにぶつかる。それは、落石の多い場所で落石から逃げ回っているようなもので、根本的な解决ではありません。

長い人生を生きる中では、〈落石注意〉と看板がかかった道を通らなければならないこともあります。一時的にヘルメットをかぶったり、全速力で駆け抜けたりしなければならないこともあるかもしれません。

でもその道は、ずっととどまって生活する場所ではないのです。あくまでも通過点のひとつなのであって、落石から逃げ回りながらテントを張って過ごすなんておかしなことです。

そして、まったく別々のところからぶつかってきたように思える複数の悩みが、実は同じ発生源であったということもあります。仕事の悩みとプライベートの問題。恋愛の悩みとお金の不安。まったく中身の違う悩みがあるとして、共通しているのは何かといえば、「自分」です。

悩みや問題を解决するために「自分を変える」というのは、自分の内側を変えているようでいて、実は違います。

自分を変えることによって「相手の評価を変える」「相手から評価されるような自分になる」という点では、やっぱり、自分の外の世界で問題を解决しようとしているわけです。

評価されるために自分を変える。受け入れられるために自分を合わせる。一見するとそれは前向きで意識の高いスタンスのようですが、これを続けるのは大変なことです。

たとえば上司や顧客のニーズを汲み取って、それに応えられる自分になろうとする。やってみてそこそこうまくいく。評価される。でも相手が変われば、また自分も変わらなければなりません。

たとえばどうしても結婚したい恋人がいる。だから価値観のずれた部分を合わせようとする。それは一時的にうまくいき、結婚できるかもしれない。一緒に暮らすほど、遠慮がなくなるほど、子どもを育てる中で、「価値観のずれ」はもっと大きくなるかもしれません。

「相手や状況が変わらないから自分が変わる」というのは、とても合理的で洗練された方法にも思えますが、その変化が自分にとって無理がある場合には、結果的にもっと深い悩みを抱えてしまうこともあります。サイズの違う洋服を何十年も着続けることはできないのです。



どんな悩みであっても、自分の外の世界で起きている問題のように思えても、「からだに目を向ける」のがいちばんの近道です。

それは決して自分に不足や非があるということではなく、自分を変えなければならないということでもなく、ただ「からだの叡智を信頼して委ねる」ということです。

外の世界で何が起きようとも、自分を癒やし、いたわり、安心して英気を養える場所があるということ。

自分の内なる世界にパワースポットを持っているということです。



あまり知られていないことですが、「自律神経は伝染する」ということがわかっています。

自律神経の状態は、ある人からある人へと、まるで感染するように伝播していくということです。

たとえば職場にひとりイライラしている人がいるとします。それが管理職であったら、そこにいた社員は皆いたたまれない気持ちになります。何か用事を見つけてその場を離れたいと思うかもしれません。

「イライラする」というのは交感神経がONになっているという状態です。上司は、サバンナで飢えたチーターのように荒ぶっている。獲物を見つけて攻撃したいような気持ちです。

「その場を離れたい」というのも、実は同じく交感神経がONの状態です。イライラした上司の交感神経に影響されて、とても落ち着いて業務にあたれる状況じゃない。リラックスして草を食べている場合じゃない、飢えたチーターから全速力で逃げるインパラのような気分です。

たとえば残業疲れで帰った夫が不機嫌でいると、妻にもその不機嫌が伝染するということがあります。妻は「何イライラしてんの?」と怒り出します。夫は「別にイライラしてないよ、怒ってるのはそっちだろ?」と言うかもしれませんが、そもそもは夫のイライラが妻に伝染して、共にイライラしているのです。

こうした自律神経の伝染は、見ず知らずの他人同士でもよくあります。

たとえば電車で、イライラした乗客がひとりいるとします。イライラしていて「チッ」と舌打ちのひとつでもしたくなります。近くに乗り合わせた乗客が「あの人なんなの、チッ」と心の中で思います。その感じに気づいた元のイライラ本人が「なんだよあいつ、チッ」とまたイライラします。さらに他の人もなんとなく不快に感じるかもしれません。

たとえば何かの理由で神妙な態度になっている集団がいるとします。お葬式の帰りだとか、職場の同じチームで大きなミスをしたとか。そこに、全く関係のないところから関係のない誰かがたまたま通りかかります。その人はとても気分がよくて鼻歌を歌いたいくらいなのだけれども、その集団に気づいてハッとして、鼻歌は止め、なんとなく自分も神妙な顔をして通り過ぎます。

言葉を発してなくても、会話を交わしていなくても、理由などわからなくても、その人が「今どんな気分でいるか」ということは、神経系を介して周りの人に伝わるものです。

それはいわば、神経系というからだの言葉によるコミュニケーション、「からだの会話」です。



こうした「からだの会話」は、動物たちが自然に行っていることです。

チーターに気づいたインパラが仲間にそれを知らせるとき、言葉はありません。神経系の反応を伝え合うことによって、チーターがスタートするより早く、インパラたちは逃げ出します。逃げ遅れたインパラは「からだの会話」に気がつけず、ゆうゆうと草を食べていた個体です。

神経系による「からだの会話」は、言葉を理解するのとは比べものにならないほどの速度で交わされます。言葉のコミュニケーションが各駅停車だとしたら、神経系での会話はリニアモーターカーくらいの違いです。「からだの会話」は、ほとんど即時に交わされるのです。

なぜならこれは危機に対処するためのものだからです。神経系というのはそもそも、安全か危険か、敵か味方かを、瞬時に判断して仲間に伝えるために発達したものだから、時間がかかっては意味がないのです。

野生動物に限らず、犬同士、猫同士、犬と猫でも「からだの会話」は成立します。ペットの犬や猫は、人間に対しても、言葉ではなくからだ全身を使って何かを伝えようとします。言葉が違うからわからないなんて思いません。当たり前のように、神経系で話しかけてくるものです。

そしてヒトも、他の動物たちと同じように、こうした神経系によるコミュニケーションが可能です。私たちも日常生活のあらゆる場面で、無意識に、「からだの会話」を交わしています。

生まれたばかりの赤ちゃんとその母親は、自然に「からだの会話」をしています。赤ちゃんが泣く→新米ママが焦る→赤ちゃんはもっと泣く。あるいは赤ちゃんが泣く→ママがやさしくあやす→赤ちゃんは泣き止んでスヤスヤ眠りはじめる、といったような具合です。

ただ、ヒトの場合は、言葉が話せるようになると様子が違ってきます。

言葉を覚え、言葉でもって思考し、言葉を使ってコミュニケーションをとるようになると、「からだの会話」の仕方をすっかり忘れてしまう人が多いのです。そうして無意識の反応だけが残ってしまいます。

たとえば小学生くらいの子がグズグズ言ってきても、お母さんは「忙しいから困らせないで」「何度言ったらわかるの」と突き放します。理屈が通じない子どもは、もっとグズるかもしれません。ただ神経系のモヤモヤをしずめてほしかっただけかもしれないのに。

たとえば仕事が忙しくてなかなか会えない恋人がいて、なぜかよりによって彼の忙しいときにかぎって不安になることがあります。「彼は私のことなんて必要ないのだ」と頭で考えて、彼がうんざりするようなLINEを送ってしまったりするかもしれません。その不安は、神経系が伝染し合っているせいかもしれないのに。

神経系によって「からだの会話」ができればもっと違った交流ができたはずの場面でも、言葉や思考にばかり偏ってしまったせいで、コミュニケーションがこじれてしまうということはよくあります。

「からだの会話」というのは、使わないでいると、外国語のように少し錆びついてしまうものだからです。

ふだんから「からだ」を感じるようにしている人は、他人のからだが伝えてくることをちゃんと感じて、じょうずに対処することができます。

でも言葉や思考が優位になりすぎていると、「からだの会話」はギクシャクしたものになってしまいます。

お互いに調節し合うことができず、ただ無意識に反応するだけになってしまい、不安が不安を、不快さが不快さを伝え合うコミュニケーションをとってしまうのです。


ならば、「パワースポットのようなからだ」を持っていればどうでしょう。

たとえばイライラした人が目の前に現れたら、からだが反応して、思わず自分もイライラします。

でもふだんから自分のからだの声を聴くことに慣れていれば「あ、今イライラしてる」とすぐに気づくことができます。「イライラする理由なんてないのにイライラしてるな。もしかしたら目の前の人のイライラが伝染してしまったのかな」と思えたら、イライラは自然におさまります。イライラした気分をそのまま返して関係がこじれることもありません。

たとえばネット上の誰かの、怒りを込めた投稿を目にすると、思わず「えっ何これ!許せない!」と腹が立ちます。

でも自分のからだに目を向ける習慣があれば、「わーすごいもの見ちゃった……私まで心臓がドキドキしてる。これからミーティングがあるから、お茶でも飲んでクールダウンしてから臨もう」と思えます。見知らぬ誰かの怒りに反応して引火することなく、飛び火しないよう少し距離を置くことができます。

神経系による瞬時の反応は避けることができませんが、からだにフォーカスすることで、すぐに「いつもの自分」に戻ることができます。

そして、イライラした人を前にしても、そのイライラに影響されることなくおだやかな状態でいることができれば、今度はイライラしていたその人の神経系のほうがこちらに影響を受けて、落ち着いていきます。

「イライラしないでよ!」「大人げないぞ」と言葉で言い含めるよりも、からだの言葉で会話するほうが、よほど自然に、より深くそして無意識に、相手のからだに大切なことを伝えることができるのです。



自分のからだがパワースポットのような状態であるということは、人がその場所を訪れたくなるということです。

疲れているとき、心が波立っているとき、人生に失望してしまったとき、人は聖地巡礼に出かけるのです。

エネルギーをもらいたい。英気を養いたい。荒ぶる心を鎮めておだやかに生きたい。人生にもう一度希望を感じたい。苦しみや悲しみをなんとか乗り越えたい。

そのための力がほしい。

そう思うとき、引き寄せられるように、呼ばれるように、人は聖なる場所を訪れるのです。その場所へ行けば、その人のからだが求めるものが与えられるからです。

こうした循環が生まれると、人間関係の悩みは自然にほぐれていきます。

まず、相手の神経系の状態に、無自覚に影響を受けることがなくなります。それだけで悩みはずいぶん減るものです。

自分と相手とが、無意識に「からだの会話」をしているということに気づけると、自分自身の在り方が自然に変わります。相手の態度への反応も変わり、理解したりゆるしたりできることも増えます。

相手や状況が、危険なのか安全なのか、敵か味方かということも、からだの感覚としてはっきりと見分けることができるようになります。自分を傷つける人に近づいてしまうことがなくなったり、適度な距離を置くことができるようになれば、多くの悩みは解决します。

相手の神経系がずっと昂ぶっているとしても、必要以上にそれに影響されず、おだやかに過ごすことができるようになります。自分にとって安全であり味方である人とのかかわりを、より大切にできるようになります。


そして、これがおそらくいちばん重要なことですが、

自分が大切にしたいと思う人にとっても、パワースポットのような存在でいられるようにもなります。

自分という存在が、誰かにとっての聖地でいられるようになる。傷を癒やし、力を与えられる場所に、大切な人を招き入れることができるようになる。

無理をして評価される必要も、相手を操作して変える必要もなくなります。「自分ではない何か」になる必要もなく、自己改革をする必要もありません。外の世界に解決策を求めて、ジタバタする必要もなくなります。

ただ自分のからだに関心を向けるだけ。

ただからだの声を聴くだけ。

ただ自分のからだの中で過ごす時間を持つだけ。

それだけで、愛する人が安心して羽を休められる「居場所」になることができます。大切な人があなたという居場所を訪れたいと、自然に求めてくれるようになります。



だから、悩みを抱えているときほど「からだ」なのです。

外の世界に問題があると思うときほど、内なる世界を充実させること。

ぐるぐる考えてしまうときほど、他人や状況をどうにかしたいと思うどきほど、からだに目を向けること。

何よりも、そしてどんなときも、自分のからだの声を聴くこと。こたえはからだが知っています。

からだが伝えてくれる叡智とイメージが、今ある悩みをきっと解决し、望む方向へ人生を導いてくれるはずです。