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自分を大切に思えないと、からだを大切にできない

「からだを大切にする」なんて、当たり前のこと。でもこれが難しいのです。

からだを大切にすることが心の安定につながるとわかっていても、そもそも時間がとれなかったり。

からだの声を聴くことが悩みを解决し願いを叶える鍵になると知っても、なかなか長続きしなかったり。

そのうちからだのことなんて忘れていつもの毎日に戻ります。

当たり前でも、わかっていても、継続するのはそう簡単なことではないのです。「からだを大切にする」、ただそれだけのシンプルなことなのに。



からだを大切にできない理由のひとつは、「自分を大切に思えていないから」です。

自己肯定感が低い。自分の存在価値をとても低く見積もっている。こうした信念のようなものがあると、自分のからだを大切にする習慣は身につきません。「この自分には大切にされる価値などない」と、意識のどこかで思っているからです。

自分のことを「大切にされるに値する人間だ」と思えるかどうかは、まずやはり生育歴によります。

親や家族や大人たちが自分をどんな風に扱うのか、子どもはよく見ています。つまりそれは「世界が自分を歓迎しているかどうか」ということと同じです。

大切に扱われるなら、自分は大切に扱われるだけの価値のある存在だと思うようになる。世界は自分を歓迎してくれていると感じる。

ぞんざいに扱われるなら、自分をそのような存在だと思う。この世界で自分は歓迎されていないのだと感じる。

誰かに傷つけられたのに十分なケアを受けないままでいたら、自分は傷つけられてもかまわない存在だと思う。恥を感じて「自分は汚れた存在だ」と思うようになる。世界は自分を脅かす場所だと感じる。

必要以上に過保護にされたり干渉されて育てば、「自分は無能で無力な存在だ」と感じる。誰かに依存しなければ生きていけない存在だと思う。世界は危険で恐ろしく、冒険などしてはいけないと思う。

子どもは、親や大人たちからの扱いを通して、自分なりの「自己の存在価値」や「世界観」を育てていきます。

大災害や犯罪被害などの突発的なトラウマによって価値観が一変するということも、もちろんあります。でも、日々の生活の中でコツコツ刻みつけてきた価値観のほうが、より深くまで根を張ります。

生い立ちの中で大人たちから受けた扱いは、そのひとつひとつは些細なことであっても、「毎日少しずつ」が何年も続けばいずれ確固たる形をもった信念として意識の奥底に残ります。入れ墨をきれいに消すことが難しいように、一度深く刻まれた信念を取り除くのはなかなか困難なことです。

からだに対してワークするのは、こうした「自分に対する間違った信念」を書き換えるためでもあるのですが、「自己価値が低い人は、自己価値が低いがゆえに自己価値を高めるための行動をとりづらい」という負のスパイラルにはまりがちです。

自分を大切にできていない人には、まずからだを大切にする習慣をつけることが大事。とはいっても、人が「自分のからだを大切にする」という具体的な行動を取るにはまず「自分を大切にしたい」という動機がなければならない。でもそもそも自分を大切にできていない人なのだから、「自分を大切にしたい」という動機を持てないわけです。

このジレンマが、からだを大切にすることを阻む障壁になってしまっているのです。



忙しい毎日の中で、私たちはつい、からだを道具のように扱ってしまいがちです。

自己実現のための道具。夢を叶えるための道具。労働対価を得るための道具。称賛を浴びるための道具。あるいは誰かの愛を得るための道具。

からだを、自分自身の一部としてではなく、自分の言うことを黙って聞くロボットや家電製品のように扱ってしまうのです。競争が激しかったり、能力や成果が求められたりする社会にいればなおさらです。

そこに「自己価値の低さ」が加われば、そうした傾向はもっと強くなります。

そもそも人から大切に扱われていない、世界に歓迎されていない自分です。からだが疲れていようがクタクタだろうが関係ない。そもそも価値のない自分なのだから、どうなったってかまわない。洗濯機や掃除機と同じ、壊れるまではどんどん使うのです。

こうした考えはつまり、「誰かに大切に扱ってもらいたい」という裏返しの願望に結びついてもいます。

自分が自分を大切にできなくて、からだを道具のように酷使する。そうすることによって役に立てたり、成果を上げられれば、他人や社会が認めてくれるのではないか。大切にされる価値のない自分だけれど、少しは大切にされるのではないか。そう思うわけです。

そうして、身体やお金目的の恋人と別れられなかったり、職場での理不尽な命令や労働に耐えてしまったり、あるいはパワハラやモラハラの加害者となって相手に過剰な要求をしてしまったりするのです。

こうした問題やトラブルのさなかにあっても、意識は逃げることができます。叱責されながらも頭の中では「早く帰ってビール飲みたいな」と別のことを考えることができます。たとえばひどい暴力を受けているときには、一時的に意識がからだを抜け出す状態になることもあります。

でも、からだは逃げ出せません。

どんなときも、からだは辛い状況の真ん中にあって、辛さを引き受けています。本人の間違った信念が「自分にはこのくらいの扱いがふさわしい」と決めつけているので、誰も、その辛い状況からからだを救い出してはくれません。

私たちはからだを「感情のない物体」のように扱い、道具のように都合よく働かせ、守ったりねぎらったりすることを忘れてしまいます。

そしてその一方で、誰かに無償の愛を捧げようと努力したり、誰かの要求に応えようと必死になったりしてしまうのです。



そういうわけで、「からだを大切にする」というのは、ほんとうに難しいことです。

さらに、継続するのはもっと大変です。

そもそも大切に思っていないからだ、自分の大切な一部だという実感の薄いからだです。単なる道具にすぎないものに、関心を持ち、大切に扱い、その声を聴くために耳を澄ますのには、意志と努力と根気が必要です。

そして「(大切だと思えていない)からだを大切にするには、からだを大切に思えてなければならない」というジレンマもあります。

「自分は価値のない存在だ」という間違った信念を取り除くには、からだにはたらきかけることが必要なのですが、「自分は価値のない存在だ」という信念がその邪魔をしてしまうわけです。



からだを大切にすることは、本来とても心地良いものです。

地に足がついて落ち着き、安心な居場所を得て、さまざまな囚われから自由になることができます。深くゆったりと呼吸し、芯からみなぎる活力を感じることができます。今を味わい、明日へのインスピレーションを受け取ることができるようになります。それはとてもとても心地良いものです。

なのに、それができないのです。

私自身がそうでした。

からだにワークすると「とてもいい感じ」、だけど少しいい感じが続くともう十分な気がしてやめてしまったり、時間が足りなくて後回しにしたり、今日はいいやまた明日と先送りにしたり、単純に面倒だったり、そうこうするうちにからだのことはすっかり忘れてしまったり。

そうしてまたしばらくすると、悩みを抱えて、からだに戻ってくる。からだにワークして「あ、この感じとてもいい感じ」と感じる。最初にはじめた頃からずっと続けていれば今頃はもっといい感じだったろうにと反省する。今度こそちゃんと続けようと思う。だけどまた忙しくなって、面倒になって……。

そのくり返しでした。

そんな行きつ戻りつでも、もちろん変化はあります。行きつ戻りつする時間も私にとって必要だったのでしょう。途中でやめたらすべてが無駄になるということではありません。

でもやっぱり、大いなる回り道だったなぁと思うのです。

からだを大切にすることは、自分にとってとても心地良いものです。とても贅沢な時間でもあります。

なのにその心地良さや贅沢さを味わうことができなかったのは、私が私を心から大切に思えていなかったから。私が私のからだを大切にできていなかったからです。

自分のからだを大切にするということは、「この自分を生涯のパートナーとして共に生きていくのだ」と誓うことなのだと思います。

私の人生に起こるすべてのことの目撃者として、からだはずっと存在してくれています。いのちの灯火が消える最期のそのときまで私のそばにいてくれるのは、他の誰でもない、私のこのからだです。

そのことに気がついたとき、本気でからだと向き合う覚悟ができたように思います。

それまでは、外へ外へと関心が向いていました。叶えたい願いはいつも自分の外の世界にありました。自分のからだを道具か乗り物のように思っていました。でもそのときは自分がそんな風に考えているとはわからず、後になって思い返してわかったのでした。

今は、からだと向き合う時間を何よりも大切にしています。楽しみに待つご褒美の時間でもあります。忙しくてあまり時間がなさそうな日は、残念に思います。夜眠る前、まどろみの中で自分のからだを感じていくひとときは、私にとってかけがえのないパートナーとの語らいの時間です。



からだを大切にしよう。からだの声を聴いてみよう。からだがこたえを知っているはずだ。

そう気がつくタイミングは、きっと人それぞれです。早い遅いはありません。その人の人生にとって必要な時期に、そのタイミングは訪れるものなのだと思います。

ただひとつだけ言えるのは、からだにはすべてのこたえがあるということ。

意識や心は隠しごとをします。真実を覆い被せて、ごまかしたり秘密を持ったり、ときには嘘をつくこともあります。

でも「からだが存在していること」、そこには真実しかありません。


前回のnoteでご紹介した「からだの感覚を呼び覚ますワーク」は、自分の、自分に対する愛を測るものでもあります。

からだと向き合いたいと積極的に思えないとき、なかなか継続できないとき、すぐ面倒になってしまうとき、忙しくてからだと向き合う時間があまり取れないとき、からだはひとつの真実を見せてくれています。

私は私という存在の価値をどう感じているのか。

それは他人の評価を測るよりも、恋人の愛を測るよりも、ずっとずっと大切なことなのです。



●からだの感覚を目覚めさせるための基本のワークをまとめたnoteです