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ほんとうの自分を隠してしまう「感情の蓋」

攻撃性と、その下にひそむ依存心について書いています。今回は「攻撃性を別の形に置き換えることについて」です。



心の穴の奥底に、幼少期から溜め込んできた未解決の依存心があると、それを抑えるために、強いエネルギーを持つ怒りや攻撃性が必要になります。

攻撃性は、依存心を抑え込む漬物石のようなものmいわば「感情の蓋」のような役割をしています。

攻撃性という重たい蓋は、ずっとそこになければなりません。蓋がなければ、その下の「依存心」が噴き出してしまうからです。

攻撃性という蓋を維持し続けるためには、怒りを燃料にします。燃料が尽きれば攻撃性も果ててしまうので、そんなことになったら困ります。隠していた依存心がどんどん膨らんで浮上してしまいます。だから、怒りを循環させ、再利用することで、攻撃性が維持されます。

つまり、他人を叩き続ける人というのは、正義や倫理のためにそうしているのではなく、「自分の弱さ(依存心)を隠すために攻撃している」ということです。



この「攻撃性」が、一見すると攻撃的ではない形で表れることがあります。

前回のnoteで例にあげた「攻撃性」は、コーチや上司によるパワハラであったり、夫婦間でのモラハラなどでした。これらはどれも閉じた関係で起きることなのでなかなか表に出にくいとはいえ、どちらかといえばわかりやすい形での攻撃です。

それとは逆に、わかりにくい形で表れる攻撃性というのがあります。多くの場合、社会的に受け入れられやすい形に置き換えられています。


たとえば、仕事に没頭するあまり家族や恋人などの人間関係を犠牲にしてしまう人。男性に多いですが、女性にもいます。

会社や責務にとても忠実なので、会社からすれば「優秀な人材」に違いないのです。成果を上げたり、それなりに安定した地位を築くことも多いので、社会的にも「まっとうで優秀な人」「成功している人」と評価されます。

でも本当の本心は、仕事を頑張りたいのではありません。

家族や恋人との「親密な関係」に背を向けていたいのです。

強い依存心を抱えてる人ほど、無意識に、自分の依存心の激しさを感じています。ひとたびその依存心が刺激されたら、暴走して止められなくなることに感づいているのです。

家族の団欒に浸っていたら、満たされなかった依存心が噴き出してしまうかもしれない。親を信じて無邪気に甘える我が子を見ていたら、「自分だって甘えたかったのに」という気持ちがムクムクと膨らんでしまうかもしれない。助けてほしいわかってほしいという気持ちが強くなりすぎたら、明日からの仕事がかえって辛くなってしまうかもしれない。

自分の心の奥底にある依存心の気配に、いつも怯えています。警戒レベルが高い火山の噴火口で暮らしているようなものです。依存心というマグマがいつ噴き出すかわからないという恐怖。それは絶対に避けなければならないことです。感情の蓋がうっかり開いてしまうことのないように、厳重に注意を払わなければなりません。

だから、「仕事に没頭する」「あえて激務を引き受ける」「忙しくて時間がとれない」という、社会的に正当な理由が必要になるのです。

自分は決して冷酷な人間ではない。家族や恋人にわざと背を向けているわけではない。親密な関係が怖いわけではない。自分の中にある依存心に気づかれてはいけない。知られたら失望されてしまう。

もちろん、パートナーや子どもに対して愛情がないわけではありません。自分としては愛情をもっているつもりで、しかも自分では依存心を隠していることに気づけていないので、「わかってくれているはず」といいように解釈してしまいます。

また、攻撃性を「仕事」に置き換える人は、恥の意識も強いものです。依存心は恥、弱さは恥、どこかで自分自身を恥じている人が少なくありません。こうした恥の意識が「社会的に認められる形で依存心を抑えよう」とする方向にはたらくわけです。

だから、親密な関係からは、あくまでも「仕事だから仕方ない」というテイで距離をとるのが一番いいわけです。

仕事に没頭していれば、依存心を刺激するような関係とは距離を取ることができます。忠誠心と責任感をもって職務をこなし、積極的に残業し、上司との付き合いも断らないでいれば、評価され、うまくいけば収入も上がります。社会的に立派な人間であれば、家族や恋人にも文句は言われません。

そして何より、仕事に没頭していれば、激しい依存心を抑え込んでいることを誰にも気づかれずに済みます。

依存心を隠すためにしては、あまりにも手の込んだやり方です。SNSで誰かを叩き続けるよりもずっと大変な方法でもあります。でも「社会的にまっとうなぶんだけ、依存心を隠していることがバレにくい」という大きなメリットがあるのです。

事実、こうした人が依存心を隠していることは、ほとんど気づかれていません。むしろ屈強な人、タフな人、自立心の強い人だと思われていることが多いものです。

つまり「依存心」とは対極の見られ方をしているわけですが、これも本人の「依存心に気づかれたくない」という意図にうまく合致しているのです。

「仕事をがんばっている」ということの背景に、強い依存心を隠しているのか、それとも健全な依存心があるのかは、仕事に対する姿勢だけを見ていてもわかりません。表面的には同じがんばりに見えたりもします。

大きな違いは、
●誰かとの親密な関係を保ったまま仕事をがんばっているかどうか
●強さだけではなく、弱さでも人と繋がれているかどうか

です。

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健全な依存心を身につけることができた人は、家族や恋人との親密な関係をちゃんと保ちながら、仕事にもエネルギーを注いでいます。

「親密な関係を保つ」というのは、結婚生活を続けるという意味ではありません。たとえ配偶者とは離婚していたとしても、良い関係が築けていたり、子どもとのコミュニケーションを積極的にとろうとしていたりすれば、それは「親密な関係を保っている」ということになります。

健全な依存心は、どこかに溜め込まれたり隠されたりはしておらず、他のいろいろな感情と共にあり、必要であれば表に出てきます。助けを求めたり頼ったり、弱さを見せたりすることができるということです。怒りや攻撃性ではなく、「親密な関係」と「健全な依存心」が、仕事をがんばるためのエネルギーにもなって循環しています。

未解決の依存心を溜め込み、穴の底に隠して蓋をしている人は、親密な関係が破綻していることが少なくありません。たとえば夫婦関係が冷え切っていたり、忙しさを理由に家族に無関心だったり、恋人との時間を後回しにしたりします。

上司や同僚、部下や仕事関係者といった「親密ではない関係」にはむしろ積極的です。そちらに時間を使うことで、親密な関係に向き合えないほうが都合がいいからです。

こういう人は、仕事をがんばるためのエネルギーは感情の蓋でもあるので、休むということができません。からだを休めて心が静かになったら、依存心がムクムクと顔を出すリスクがあるからです。常に「依存心がバレてはいないか」と恐れているので、そのための余分なエネルギーをとられてしまい、いつも疲れています。

また、健全な依存心をもっている人は、弱さで人と繋がることができます。

人の悲しみに共感し、寄り添うことができます。弱音を吐いた人をなぐさめ、励まし、勇気づけることができます。自分が悲しいときや苦しいときは、誰かに助けを求めることができます。生産性などなくても「ただ共に過ごす」ということに意味を見出すことができます。

でも、依存心を隠している人は、強さや攻撃性でしか人とつながることができません。

弱音や涙が苦手です。自分自身の弱さにすらも向き合えないできたので、他人の弱さをどう扱っていいのかわからないのです。悲しんだり落ち込んだりしている人を前にすると、不機嫌になったり怒ったりすることもあります。封印したほんとうの自分を見ているようでたまらないのです。とても見ていられなくて、大きく距離をとることもあります。

ただ、こうしたことはどれも、大きな問題にはなりにくいものです。

攻撃性を仕事に置き換えている人は、社会的にはまっとうであったり、成功者であったりします。すぐ近くにいる家族や恋人は無価値感や虚しさを感じていますが、それは他人からはわかりません。健全な依存心をもつ人と同じように「仕事をがんばって成果を出している素晴らしい人」に見えます。本人も「激しい依存心を隠している」ということに気づいていません。本当の自分を偽り、封印して社会生活を送っています。


でもいつかその封印は破られます。

自分をだまし続けられるほど、ほんとうの自分を隠し続けられるほど、人生は短くないからです。

沈黙していたマグマは、いつか地殻を突き破って噴火します。未解決の依存心は、隙あらば浮上しようと狙っています。疲れすぎたり、年齢を重ねて体力が落ちてきたりすると、依存心が膨らみ、感情の蓋が押し上げられてしまいます。

心の穴の底から突き上げてくる依存心のエネルギーをずっと抑え続けるには、膨大なエネルギーを必要とします。無意識の中で、蓋を押さえ続けるのは想像以上に大変なことです。ほんとうの自分を隠したり偽ったりすることは、心身を疲弊させてしまいます。

どんなに注意深く依存心を抑えてきた人であっても、長い人生のどこかの時点で、自分の依存心と向き合わざるをえなくなるときがくるものです。

そうなってみてはじめて、周りを見渡すと、手をとり寄り添ってくれる人がとっくに去っていたことに気がつきます。依存心というとんでもない脅威に、たったひとりで向き合わなければならないのです。


●ふたりの女性のしくじり

「攻撃性を別の何かに置き換える」やり方には、他にもあります。

たとえば『しくじり先生』という番組に出演されていた元キャリア官僚の山口真由さん、トレーナーのAYAさん。

山口さんは、東大在学中に司法試験に合格し、卒業後は財務官僚として勤務され、博士号とNY州弁護士資格を持つという、華麗なるキャリアの持ち主。美人な方でもあり、非の打ち所のないような女性に見えます。

でも彼女はこう話していました。

〝私はもともとだらけがちだったし、すごくボンヤリもしていたし、いろんなことがトロトロした子どもだった。でもやっぱり忙しい母に迷惑をかけちゃいけないと思い、お姉ちゃんだからちゃんとしなきゃと思ってきて、「私はだらしないことをしない」「ちゃんとする、だらだらしない」と思ってきた〟
〝感情に走らないように、ちっちゃな頃からトレーニングして、勉強してきた。これやりたいとかテレビを見たいというときも、感情的に泣きたいときも、全部「勉強しなきゃ」「もっとちゃんと勉強しなきゃ」とやってきた

ほんとうはのんびりしたマイペースな子どもだったのに、自分の依存心を抑えなければないと思った彼女には、「学歴」「キャリア」「知識」という重しが必要だったのでした。

他人を傷つけることなく、親を安心させ喜ばせ、自分自身もメリットを享受できるやり方です。社会的にも高い評価を受けます。学歴と専門知識に裏付けされたキャリアは、本人にとって安全で信頼できる「感情の蓋」でだったのです。

順風満帆に見えた山口さんですが、2年付き合っていた理想の彼氏に振られたことで、自分の「恋愛偏差値の低さ」に気がつきます。

山口さんは、お付き合いしていた男性には「1カ月前から予定表を出してもらうこと」を求め、自分のスケジュールを常に優先していました。不満が募った彼から別れを切り出されてはじめて、「スケジュールを合わせるから話し合いたい」と言いますが、もう会いたくないと断られてしまいます。

山口さんは過去の自分を振り返ってこう言います。

〝私は男社会で身を守るために、理論で男性を戦う癖がついてしまった〟

彼に振られたあとしばらくして、ある日限界を迎え爆発してしまった山口さんは、それから自分の心に目を向けるようになります。でも番組放送の時点では、依存心は完全に癒やされたわけではなさそうです。

〝「急に海に行きた〜い」とか「あれがしたいな〜」とは思えない〟
〝いつも自分を俯瞰して世間体とかを考えて行動してきたから「自分の人生は自分が主役だ」とは思えない
〝自分を解放するって、どうやって?
 どうやって休むの?
 1日オフにして、何をしてるの? 
 何もしなかった日は、振り返って愕然としてしましまう〟

努力し、知識を吸収し、キャリアを積むことは素晴らしいことです。

でもそれが「攻撃性の置き換え」であったなら、その努力やキャリアが本人を満たすことはありません。

未解決の依存心を抑え込むための攻撃性が、どんなに社会的に優れた何かに置き換えられたとしても、その依存心を癒やさないかぎり、本人は苦しみ続けるのです。


クロスフィットトレーナーであるAYAさんの場合は、山口さんにとっての知識やキャリアが、「完璧な美ボディ」「ストイックな生活」でした。

〝トレーニング中、男の人と対等に話すためには、女っぽさが出ちゃダメだ。女を出してる場合じゃないと思った〟
〝トレーナーの鑑としていなければいけない〟
〝近寄りがたいバリアを張っていた〟

トレーナーとして活躍し、テレビや雑誌に登場する機会も多く、仕事では大成功しているように見えるAYAさんですが、何年ものあいだ恋愛から遠ざかっていることに悩んでいました。

女性としてお誘いを受けると「トレーナーとして失格だ」と感じたり、ストイックな生活を守るために飲み会を断ることが多かったり、自分でつくりあげたAYAのイメージを壊してはいけないと思い込んでいました。そうして「AYAでいることが辛くなってしまった」のです。

番組でAYAさん本人が打ち明けた「素のキャラの私が今いちばんしてみたいこと」は、

〝ピンクのドレスを着て男性に甘えてみたい〟

でした。他にも「原宿でクレープを食べたい」「ケーキバイキングで思いきり食べたい」という願望があるとのこと。

AYAさんにとって、依存心を抑えるための「蓋」は、トレーナーとしてのストイックさであり、鍛えられた美しい肉体であり、手を抜かない厳しい指導だったのでした。

「絶賛しくじり中」としながらも、自分の心と向き合い続けているAYAさんは、最後にこう話していました。

〝自分の弱さをさらけ出せる心の強さを持とう〟



依存心を癒やすには、まず依存心があると認めることが必要です。

でもそれこそがほんとうに難しいことです。AYAさんが言うように「弱さをさらけ出す」ということも大事なのですが、そもそも「自分にはさらけださなければならない弱さがある」と認識できるかどうか。それには、失恋であったり大きなしくじりであったり、傷みを伴う経験がきっかけになることが多いものです。

傷みを経験し、このままの自分では苦しいと気づき、強がっていた自分に気づき、心の奥底にある依存心と向き合ってみようと思ったとき、「誰かにそばにいてほしい」と切実に求める気持ちが湧き上がります。誰かに寄り添っていてもらいたい、見守っていてもらいたいと本能的な欲求が生まれます。その気持ちを否定せず自分で認めることができれば、癒やしはさらに進みます。

傷みの経験は、生き方を大きく変えるために必要なものです。

強い依存心を抑えようとするエネルギーは、それもまた強大な力持っています。そうした強大なエネルギーを扱うには、大きな傷みの経験でなければ対抗できません。経験せずにすむならそれがいちばんいいのかもしれませんが、傷みの経験があったからこそ木付けることというのもあるのです。



とはいえ、心の底に溜め込んだ依存心と向き合おうと思ったときに、それまで重しにしていた「蓋」を取り除くのは、大変な作業です。

勉強であれトレーニングであれ、人の何倍も努力して勝ち得てきたものです。攻撃性を社会的な形に置き換えたものであるとしても、努力してきた自分がいることは紛れもない事実です。

感情の蓋を取り除くということは、ときに、努力してきた自分を否定するような気持ちになってしまうこともたしかです。

真面目に誠実にひたすらがんばってきただけなのに、それがいつのまにか「ほんとうの自分」とはずいぶん離れたところに来てしまっていた。そのことを認めるのは、自分自身の来し方を否定するように感じて、とても辛いものです。がんばってきたことが全部無駄だったのかと虚しくなってしまうかもしれません。

でも、全部無駄だったのではないのです。

依存心に蓋をして生きてきたことが、間違っていたのではありません。ストイックな努力が無駄だったのではありません。

未解決の依存心は、それを穴の底に隠していること自体、大きなエネルギーを消耗するものです。それを表に出しても満たされない環境にいるうちは、表に出ないほうがいいということもあります。

だから、重い蓋として依存心を抑え込んできてくれた「攻撃性」は、恩人でもあるわけです。依存心の気配に怯えることなく今まで生きてこられたのは、それを抑える「攻撃性」があったからこそなのです。

もしもその蓋がなければ、無防備な依存心が表に出て、深く傷ついてしまうことがあったかもしれません。悪意のある大人に傷つけられてしまうこともあったかもしれません。ますます自分を恥じる気持ちが強まってしまっていたかもしれません。

「攻撃性」という蓋は、そうしたことから自分を守ってくれたのです。間違いだったのでも敵なのでもありません。健全な依存心という土台がなくグラグラな自分を支えていてくれていたもの。依存心が表に出て傷つくことから、自分を庇護してくれていたものです。

ついに蓋が開いたとき、図らずも依存心が吹き出しそうになってきたとき、それはつまり「依存心を出しても大丈夫な自分になった」ということです。

恋愛がうまくいかないとき、人間関係がこじれてしまうとき、大きな傷みを伴う経験や失敗をしたとき、それは「時が満ちた」というサインです。

癒やされるべき感情は、癒やされることができるタイミングで出てきます。こんな自分がいるんだ。自分にこんな感情があったんだ。そう気づけたときが、癒やしにふさわしいタイミングです。

心やからだは、癒やしにふさわしい「時」をちゃんと知っているのです。


●続きあります