見出し画像

『鉛色のカエル』2

4 楓 現在


 両手をいっぱいに広げ、レストランの店先まで、日曜日の人々の間を走っていく少女の背中を僕は見ていた。少女の親であろう両親が談笑しながら後を追っていく。昼時のレストランフロアは人で溢れていたので、フロアを移動し、僕らはノマド向けのカフェに落ち着いた。
「ここでよかった? 普段、コーヒーとか飲むの?」
「はい。大丈夫です。だけど、全然覚えていらっしゃらないんですね」
「え、なにが?」
「二人でイベントの打ち合わせしたときに入ったお店、カフェでした。あの時、市川さんがアイスコーヒーを頼まれたので、私も真似して頼んだんです」と言って、僕の瞳の奥のなにかを探ろうとする目の動きが変わっていない。
「そうだっけ? 全然覚えてないや。はは」もちろん覚えていた。
「市川さん、音楽のこと以外目に入ってませんでしたもんね」
「え? あー、いやいや、もうそれは言わないでよ。今でも反省してるんだから」
「でもキョウちゃんだけは特別って感じで・・・」
 横浜駅のバスターミナルを見下ろすと、数台のバスが停車していて、数台のバスが出ていく間際。白色赤色黄色に黒、何色もの車が太陽の光を反射させて向かいのビルを光らせた。きらきらと眩しい。
 純白の光の中で眩んだ視界に僕は自分の姿を見つけていた。蜘蛛の巣の餌食のように手足は宙をかきむしり、何もつかめず、どこへも行けず、ただ過ぎ去っていく背中を見つめている。くそったれ、と思いながら僕はその事実に戦慄してかゆくもない左腕を掻いた。
「あの! 私、結婚するんです。デザイン事務所の先輩と」
「え? えー! それは。おめでとう。けど大変だよ? 結婚は」
「はい。私が結婚なんて信じられなくて、驚いてます」
「あれ、もしかしてそれを言うために、今日わざわざ?」
「いえいえ違います。実は、引越しするために荷物とかデータとか整理してたら、懐かしい写真がたくさん出てきて、ちょっと市川さんにお渡ししたかったんです」と言って彼女は小ぶりな赤いトートバッグから包みを取り出して僕に差し出した。
「水森亜土じゃん」「はい、好きなんです。その包装紙も実はヤフオクで買いました」「まじかよ、じゃあ中身だけ出して、紙は返すよ」と僕が包み紙のシールを剥がそうとすると「いえ、いえいえ、いいんです。帰られてからゆっくり見てください」と言って彼女は一度腰を上げて深く座り直した。
「わかった。どうもありがとう」
 店を出て西口を歩くと、若くは見えない男が足元にギターケースを広げて置いて、歌とギター共々道行く人に無視されていた。譜面台を目の前に立ててギター一本で他人の作った歌を唄っている。そこから数十メートル離れた場所では全く寂しくなさそうな三人が、ドラム三点とアコギにマイクスタンドを使って自作らしい曲を演奏していた。「あなたに会いたい」「ずっと好きだった」「忘れたくない」と”誰もが知ってる”歌を唄っている。曲が終わると歌い手の女が僕らの方を見た。黒いハットに大きな数珠玉のようなネックレス、白いリネンのシャツにどうやら若葉色のロングスカートもリネンでサンダル、この女には僕が景色に見えるらしい。なるほど、無視しているのはむしろこいつらの方かと思っ た。三人がそれぞれに、スネアを弄ったり、アコギをチューニングしたり、マイクスタンドを何度も握り直したりの間に、先刻の男の歌声が向こうから届いてくる。そちらを見やると男は顔をくしゃくしゃにしてあらん限りの声で唄っている。聞き覚えのある曲はアジカンの「ループ&ループ」。
 見上げる駅ビルに光が差して横浜の雑踏が賑やかに鳴ると、行きつ戻りつの表情は豊かに映え渡り、ささやかなクスノキに風が少しく抜けて光はまた揺れている。彼の姿は風景の一部として意味をもって美しく街に溶けているのに、彼の願いはとうとう経済の一部にはなれないのだ。その残酷さが僕の歩幅を少し狭めた。
「今日はわざわざありがとうね。じゃあ、元気で」
「市川さんも、元気出してくださいね。ではでは」と丁寧にお辞儀をしてJRの改札の向こうに歩いていく、二十八歳になった楓の歩幅は張り切って広いように見えた。

5 楓 過去


 下北沢で鬼怒川楓にばったりと会ったのは春の初めのことだった。B5判のフライヤー百枚と無料配布用のCD(正確にはCDーRだけど)を南口のマクドナルドの前辺りで、商店街通りに向かう人々に配っていた時だ。楓は赤いベレー帽にオーバーオール姿でピョコリとあらわれて「水森亜土みたいじゃん」と僕が言うと「ちょっとわかりません」と言って困り顔になった。
「ここを通る時、いつも市川さんがいるかもって思うんです。初めてお会いした時もここでしたので。今日ももしかしたらと思っていたら、いらしたので驚きました」
「そうだったっけか」
 楓には恋心とまではいかないにせよ、少なくとも楓が見せてくれる好意以上の好意を僕は抱いていたと思う。僕の頭の中にあったイメージの骨組みを取り出して、メンバーと楽器と共に肉付けをして、精一杯の自分を歌にして作る曲は、もう丸裸の僕そのものと言っても間違いはなく、それを好きだと言って楓はライブに通ってくれていたのだ。それに東京都世田谷区代沢に住んでいて、芸術学校にも通う女の子に気に入ってもらえた、ということが僕の情けない虚栄心をくすぐってもいた。
 楓は両手に持っていた紙袋を地面に置いて、首から下げていたカード型のデジカメを僕に向けた。僕は写真を撮られたくないのと紙袋の中身が気になったのとで、大袈裟にして紙袋を覗き込むとアナログ盤がぎっしりと入っていた。
「なにこれ、めっさ入ってるじゃん。今日買ったの?」
「はい。最近レコードにはまってしまって。わー、市川さん撮れました。嬉しいです」
「つかさ、これ結構金使ってるよね。なんなの君は」
「いえいえ、それよりイベントの話、進んでいらっしゃいますか?」と楓は話を逸らした。
「いや、うーん。まぁ、どうかな」
「私は絶対にやってほしいです。友達にもたくさん声かけます」
「なんで、なんでさ、そこまでうちのバンドを気に入ってくれてるの? 正直言って俺は全然自信ないし。鬼怒川さんくらいなんだよね、こんなに応援してくれてるの」
「応援とは少し違うと思うんですけど、どう言ったらいいのか。歩幅が、なんとなく歩幅があってる気がするんです。私と」と楓は答えた。「私もイラストや絵を描いていきたいと思ってて。市川さんたちは私を置いてかない気がするんです」
 なににせよ楓との距離が他の女の子よりも近づいていたのは間違いなかったので、僕は二十代の男らしく選択肢の増加を喜んだりもした。だけどこの頃の僕は何をおいてもバンド。人気を得るには。良い曲とは。グルーヴとは。かっこよさとは。普遍性とは。真理とは。といった妄想に時間を割いていて、音楽のための戒律で自分を縛り付けたりもしていた。だから僕から歩み寄れば距離を縮められそうな女の子が現れたとしても僕の方から約束を持ちかけることはなかった。
『れいちゃーん なにしてるーん? るんるんるーん 春休みちゅに川崎行くからつきあってー ていうかつきあえ バカ しね』
 と、キョウだけは少し違っていた。

6 セラピー2回目


 病院の裏手はゆるやかに山を下る斜面になって、梅林が沼まで続いていました。沼に名前をつけた覚えはなくて、ザリガニをつかまえに行こうと決めたら、その沼に行くことを意味していたんです。
 あるザリガニ釣りの日、私とひろちゃん、兄と姉と母の5人で沼にたこ糸を垂らしていました。日差しが強く、山の葉むらは青く輝いて、場所によっては透き徹る水底に小魚やザリガニの姿がくっきりと見て取れ、私は湧き上がる情動を遠慮なく声に出していました。
 青い空、青い山、黄色い沼、赤い陽光、赤い私たち。
 滅多には遊びに参加しない母もいて、私は安心と幸福でいっぱいでした。
 水面に豚ばら肉の油が虹色に浮かんで広がります。
 釣りに使う餌はいつも豚ばら肉と決まっていました。ザリガニが食いついたら最も離れ難くなるのが豚ばら肉だ、と言ったのは兄です。
 兄が釣り上げ、姉が釣り上げ、母もやっとで釣り上げました。
 水中ではいいんですね。ところが食らいついたザリガニを水面上に引き上げる瞬間です。彼らは豚ばら肉よりも湿りのある故郷を選んでしまう。
 失敗が続き、堪え性のない私はひろちゃんを道づれに腰まで沼に入って網取り手づかみ作戦を敢行していました。
 鬱蒼とした沼の奥、水面に流れはなく、濁り甚だ多し、陸地と沼との取り合いに掘られた横穴から、ゆらりゆらりと天を仰ぐ紅の爪。
 私は全身から吹き出る欲望と興奮に喉をふさがれてしまい、阿とも言えませんでした。
「マッカチンだあ!」とひろちゃん。
 私はすぐに中段に構えをとって、虫取り網を横穴に向かって叩きつけました。
 全力でえええ! 泥ごとかき出すようにいい!
「どりゃあ!」
 
「ピースぐらいの大きさだったよ」
「そんなのいるわけねえだろ」
「またれいくん、うそついてる」
「ほんとだよ、ひろちゃんもみたよ」
「逃しちゃったの? やっぱりれいじね」
「ちがうよ。ひろちゃんのせいで逃げられたんだよ」


 何年か後に、私は沼のあった場所へ行ってみたんです。建て売りのつまらない家が建ち並んでいたので、私は世界一大きなマッカチンが居たと覚えのある場所で小便をしてから帰りました。
 ミンミンゼミの声が気になったので七月の終わり頃だったと思います。

7 キョウ 過去


 二◯◯四年十月二十一日、僕は自身のバンドのホームページを立ち上げるために買ったノートパソコンで、「くるり」というオルタナティヴロックバンドのホームページを見ていた。お前は頭がかたい、日本にもいいバンドはいる、もっと柔軟に考えろ、と練習スタジオの店長に言われ、それなら日本の面白いバンド教えてください、と尋ねたら二つ返事でくるりだと店長は答えた。
 あの頃はまだSNSというものはなくて、ネット上で不特定多数の他人との交流といえば掲示板だった。ファンとの交流のためにバンドのホームページに掲示板を設置することは定石とされていて、くるりも例外ではなかった。僕は彼らのホームページに見つけた掲示板にバンドの音楽を聴いた感想をコメントしたのだ。
『知人に勧められて先日はじめて聴いてみました。僕もバンドをやっているのですが、方向性が似ていて驚きました。これからもがんばってください』というような内容だったと思う。そこに僕は宣伝のつもりで自身のバンドのホームページのリンクとメールアドレスを載せた。ひょっとしたら僕のバンドの音楽も聴いてくれる人がいるかもしれない、と卑しい期待を込めたことははっきりと覚えている。
 その数時間後、バンドのアドレスに僥倖のメールは届いていた。


 渡瀬のホームに降り立つと、そこから見える風景は徒然と田舎だった。空気は一層冷え冷えとしていて、身体の内から筋肉が強ばっていく。右に左に視界を回すと、何もないなと呟いてみたくなるほどに僕の乏しい目には田舎が映るだけだった。僕以外には誰もいない、キョウの姿も見えなかった。先ずは駅の外に出ようと見回すと改札口もないように見えた。プラットホームに併設された平家の木造住宅のような駅舎が目に止まり、勝手口から入り玄関から抜けるようにくぐると駅の外に出た。切符は手に持ったままだった。
「お前、遅いんさ!」不意に怒鳴る声が背後から聞こえた。振り返ると、横浜であればそば屋の店先でしか会うことのできない信楽焼の狸の横で、ふてくさり顔をした女の子がケータイを右手に持ち、アスファルトの上に仰向けに肘をついて寝転んでいた。
「キョウ・・・ 」”さん”なのか”ちゃん”なのか。
「お前、どんだけ待たせるんさ。寒くて凍えるっつーの」と言いながら両手で服に付いた砂をパンパンと払い、彼女は起き上がった。
「申し訳ない。館林の駅でちょっと喫茶店に寄っていたら電車に乗り遅れたみたいで」と言いながら僕は改めてその女の子を視界の中心に捉えた。深緑の地に白いラインがくるっと頭を回るニット帽、目が一瞬合い、濃い紫のスウェットのトレーナー、焦げ茶色のコーデュロイパンツ、赤いスニーカー。横浜だったら男の子のような恰好だと思った。群馬ではこういうものなのかな、とまでは考えなかった。
「お前な、三十分だぞ。あー寒い寒い。女をこんなところで三十分も待たせんなよ」と言いながらキョウは僕の顔や服装、髪型や身長、そういったものをちらちらと吟味しているようだった。
「遅れてすいません。初めまして」
「堅苦しいんさ、そんなんいらんから」と一つ放るとキョウはつんと振り向いて歩き出してしまった。
「ごめん。遅れたこと謝るよ。申し訳ない・・・ 」
「どうすっかな、家はお父さんがいんな」
「え? 少し散歩しながら話そうか?」


 キョウの部屋は六畳間に一間床のある和室で、僕の知っている女の子の部屋とはおよそ異なり、中学の少し悪い先輩の部屋のような乱雑な雰囲気だった。敷きっぱなしの蒲団があって、小さなガラステーブルに手帳や化粧品、CDなどが重なり合っていた。
 カビ臭いような匂いが少しするけれど悪い気は全くしない。
 おそるおそる部屋に入るとキョウはいつ手に持ったのかわからない駄菓子のようなものをぽりぽりと口に入れていた。
 窓際に小さな勉強机があり、その上にはプリクラのシートが何枚も散らばっていた。
「そうだ、キョウ。クリスマスプレゼント」
「お、ちゃんと持ってきたんか。えらいえらい」
「約束だったからね。俺のバンドのCDとくるりのDVD」トートバッグから横浜のHMVで緑と赤のクリスマス用の包装をしてもらったDVDとそんな包装は当分してもらえそうにない僕のバンドのCDを渡した。
「ありがと。欲しかったんさ、これ・・・ ふふ、岸田かっこいい」と言ってキョウは包み紙をなんのためらいもなくばりっと破き、さっさとDVDをプレイヤーにセットして小さなブラウン管テレビの電源を入れた。
 あれ、俺のCDには興味ないの? とは言えずに僕はキョウの流れるような動作を見ていた。それは女の子が男からもらったクリスマスプレゼントを扱う様子にはとても見えず、まるでたった今コンビニで買ってきた雑誌をビニル袋から取り出して無造作にページをめくるように日常的だった。CDの方は一瞬で存在を忘れられたように蒲団の上に放られた。僕はそのCDを見てバンドメンバーの顔と徹夜の日々の断片を思い出し、野営地で敗戦を告げられた泣きっ面の兵隊のことを連想した。キョウはテレビの画面上にくるりの岸田繁が映ると僕の存在すらも忘れてしまった様子で、岸田かっこいいを三回、岸田かわいいを一回、岸田たまらんを一回。
 キョウが憧れのロックスターに見惚れている間、僕の方の目はキョウの机の上を徘徊していた。プリクラのシートの他に黄色のゲームボーイカラー、リップスティックにマスカラ、板チョコレートに似せてある手鏡、駄菓子のゴミ、ドラクエの最初に出会うモンスターの人形、そいつを手にとってグニグニと両手で顔を潰してみるとなんだか腰が抜けそうになった。
「こら、れいくん。スラたんに触らないで。あたしの大事な子なんさ。それ」
「え? これが大事な子?」
「もう。この変態」と言って僕からスラたんを取り上げると再びキョウはテレビの前にあぐらをかいた。変態と罵られたことがなぜなのか考えたけれど、浮かぶ答えが実に変態でキョウに追求はしなかった。
 机の上に目を戻すと紺色の学生手帳が目に入った。学生手帳なんて懐かしいな、と思いなんとはなしに手に取った。
『タテバヤシチュウガッコウ、ニネンサンクミ、タガワ、キョウ? これでキョウって読むのか?』
 学生手帳の1ページ目には大抵校歌が書かれており、その次に校則というように続くのだけれど、キョウの手帳は1ページ目から男の子と二人で撮ったプリクラで埋め尽くされていた。中にはキスをしているものもある。
 男は一人や二人じゃない。
 いかにも中学生という感じの前髪を立てた少年。黒縁のメガネにカジュアルな格好の二十代前半くらいの男性。長髪の不良っぽい男、どんどん出てくる。日付が記されているものが何枚かあり、8月8日、10月15日、全てこの年のものだった。
「あれ? キョウ。キョウは今、何歳だっけ?」
「あー。十三だよ」
「おいおい。ちょっと待ってよ。おま・・・ キョウさ、メールでは十七だって言ってたじゃん。俺はてっきり」
「あーね。けどれいくん、十三って言ったら相手してくんないべ?」そう言ってキョウは仕方なさそうにテレビに視線を残したまま身体だけ僕の方に傾けた。
「十三って、中二だったら十四じゃないの?」
「あたし二月だから早生まれなんさ、言わんかった? 絶対言ってるよ」
「いやいや。まじか。そうなんだ。えー! 十三って・・・ えー!」
「そう、だかられいくんと十個違うね。こーの犯罪者!」キョウはしたり顔で大きく肩を左右に揺らしながら「くるり」と一緒に歌い出した。
 キョウの見た目は背格好が大きく、身長は160㎝は間違いなくあった。目つきは十三歳の瑞々しい噴水のような輝きとは異なり、どこか達観したような不思議な憂いを帯びていた。胸は出てるし、唇もある。更にこの日実際に会うまでにやりとりしていたメールでのキョウは、最近の音楽に対する持論やアートに対する持論、恋愛や社会に対する意見も明確に持っており、僕の方が背伸びしていないと目線が釣り合わないほどだったのだ。僕はそんなキョウの新しい意見を聞くのが楽しく、頼もしいとも感じていた。
 僕の方は確かに二十三歳と八ヶ月だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?