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『鉛色のカエル』3

8 現在


 横浜の実家では僕の机の上で当時録音に使っていたMTRやKORGのミキサー、それにアンプシュミレーターや各種エフェクターが埃を被っており、引き出しを開けるとポケット手帳が数冊、二◯◯五年のものを開いてみると四月三日の日曜日に『キョウと川崎』と書いてあった。その手帳のメモ欄にはこの年に僕が対バンや知り合いのライブに訪れた際に観たり、CDをもらって聴いたバンドのレビューが幾つか記されている。
『ウィスタリア』スリーピース、女の子のボーカルギター、ボーズ頭のベース、ドラムも女の子。綺麗な花を求めても見つからない、というか見つけられないのでドクダミ持ってきましたって感じ。世界観も椎名林檎のペラい版。演奏もぺらっぺらなんだけど、それが逆に良い方向へ機能してる曲もあった。スリッツっぽいかも(今でもネットにホームページだけ残っている)。
『ペッカーズ』四人組、全員ロカビリーファッションでグレッチにウッドベース、だけどやってることはドリフって感じ。真面目に作ったっぽい曲は何故かバンプみたいだった。ロカビリーがやりたいのか、コメディがやりたいのかよくわからないし、なによりリアリティがない。これじゃコスプレだろ。
『ブラッドベリー』スリーピース、顔のいい男三人がなんとなく悪そうな風貌で、ドクロ、女、セックス、ドラッグ、ロックンロール。こういうバンドって歌詞が子供っぽくてぺらいことが多い気がする。「もっと遠くへ」とか「遠くまで」って絶対出てくる。本当に真剣に曲と向き合って、いい曲を作ろうとして生み落とした曲だとは思えないものばっかり。雰囲気だけ。ラモーンズが好きだって言ってたけど、ラモーンズのかっこよさはそういうことじゃないと思う(後に僕のバンドのドラムが参加したけれど、数年で自然消滅した)。
『赤面王国』四人組のバンドに女のコーラス二人とトランペットが入った編成。学園祭バンド。下ネタやコントっぽい歌詞にファンクっぽい曲、『大正製薬の歌』というのが結構お客さんにもウケていた。こういうバンドが対バンで出てくると妙に安心する。アレンジも上手いし、演奏力もあるし、センスも感じるのにどうして真剣に戦わないのか不思議。就職してるのか? とか考えてしまう。
『ミスト』もろコールドプレイ。まんまコールドプレイ。最近増えてる。
『おもちゃの楽隊』スリーピース、テレキャスにジャズベ。その辺のコンビニで床をモップがけしてそうなボーズにメガネのギターボーカル、掃除屋のバイトで先輩に怒られてそうなベース、スーパーでレジ打ってそうなドラム、そんな三人。この三人がステージでピクシーズやナンバーガールみたいな不協和音すれすれのコードで日常を歌ってるだけなのに超かっこよかった。演奏は言わずもがなボーカルの声も存在感あってよかった。金沢文庫から来たらしい(今でもたまに彼らにもらったCDの『換気扇』という曲を聴く)。
『桃夢ハル子』地下アイドル? よくわからんけど、おかっぱ頭の女の子がクオリティの低い打ち込みサウンドをオケに歌って踊ってた。勇気がすごいと思うと同時に代々木の懐は深いと思った。下北だったらお会いできないと思う。ライブハウスで女の子が一人でステージで歌ってるだけでなんか切なくなった。誰の車に乗ってんの? って感じ。けどくるりのワールズエンドってかYUKIのジョイっぽい曲はよかった、気がするけど、やっぱり誰が作ったの? って感じ。背後に男の気配がしてた。
『ロゼッタストーングラビティ』五人編成の男バンド、お客もついてるし、今度ワンマンらしいけど、歌詞がやたら哲学的というか文学的で意味わからん。わーきゃー言ってる女子は絶対あのハーフのギターボーカルが好きなだけで曲は関係ねーと思う。正直、こいつら聴くならアジカン聴くわ。それにバンド名がイタタタ。
『ハイスクールアパート』スリーピース、ミッシェルとピロウズの影響が強くゴリっとした曲が多いけど、優しさ隠せてませんよって感じ、好き。ドラムがずっとはしってたけど、気にならないくらい曲がかっこいいし、なにより誠実。
『潮時ステーション』六人組ファンク。ファンクって家族だと思うんだけど、まさにそれ。大学サークルを飛び出して就職しないで踊ってます感全開。演奏力がないと絶対にゴマカシがきかないジャンル、なのに上手い。女の子のコーラスはずるい。
『サチコモデラート』二人組。エレキギターと歌だけでロックを感じさせるってすごい。本物の歌に本物のギター。しぶい。鈴木茂みたいなギターに演歌みたいな歌。サチコさんは有名な作家の姪っ子らしい。ボンゴレさんはスタジオミュージシャンらしい。
『アントニオビタミン』スリーピース、男三人組、面白いバンド。曲はウルフルズが好きなんだなーって感じだけど、MCが本当に面白かった。曲はいいからもうずっと喋っててほしいってなった。曲が始まると早く終われって思った。これはすごい。MCは大事だと心得よ(このバンドのギターボーカルは元お笑い芸人で、現在はお笑い芸人に戻った)。
『モノプラン』カンペキ。もうバンドやめよっかなレベル。こんなんやられたら俺はどこに行きゃいいんだよ。
こういった調子で続く馬鹿げたレビューは手帳の数ページに亘って書かれていて、目を通しているとあの頃に出会った仲間たちの汗と呼吸が今そこに立ち上がったかのように感じられた。手帳を閉じてしまうと、作詞や作曲をしているだけで世界中を見渡すことの出来た出窓から、見慣れた電信柱と向かいの家の洗濯物が揺れているのが見えた。

9 春子 現在


 「キョウちゃん、かわいかったー。うん、可愛かった」と、自分の言ったことを確かめるように頷いて春子は喜びを小さな口に含んだまま下を向いていた。
「あれさ、なんのキャラクターなのかね。俺さ、アニメ? ていうかテレビとか全然観ないからわかんないんだよね」と言いながら僕は目が赤くなっていないか、春子に悟られていないかと気にしていた。
「私もよく知らないんですけど、マクロス? とかそういう、なんかロボットのアニメみたいですよ」
「へー、マクロスか。でも曲はすげえいい曲だったなあ。バンドの演奏も上手だったし、お客さん? ていうのかねあーいう人達は、超盛り上がってたな」
「キョウちゃん、本当に楽しそうでした。なんか私、キョウちゃん、居場所見つけたんだなって」
「うん? そーだね。まー楽しいんだろうね」
歌舞伎町のイベント会場を出ると、雑踏と夜とライトが混ざってまぶしく、僕と春子は余韻を両手で抱えてJRの駅へと向かっていた。
「市川さん、もしよければ、少しお話いいですか?」春子は背筋をまっすぐに伸ばして、マリンブルーの腕時計を左手首側で確認した。


懐かしい雰囲気の喫茶店に入るとビートルズの『ジス・ボーイ』が聴こえて、時間が止まったように思えた。


キョウとの出会い。陸上部時代のキョウとの話。離別。話し疲れた春子の瞳は青い記憶の中を泳いだ後で濡れていて、導かれた感情に絆されてもがくように振動していた。いまや明るすぎるカフェをあとにして、駅に向かうとすぐに僕らに夜が来た。たくさんの奇妙な音と怒りを東京の街に感じながら、僕はキョウの残した意味に近づいていた。とても近くに春子を感じても僕は決して質問はしないと決めて、夜空に視線を上げるといつまでも他人面したビル群の隙間で月が静かに待っていた。


「キョウちゃんは私に音楽をやってるって言ってました」
「音楽か、まー音楽といえば音楽なんだろうけどね」
「そうですね、だけど私はやっぱりなんか、あーいうのは違うと思う。うん」
「そんなことないよ。俺はもうなにもやってないから偉そうなこと言えないけど、ピアノだろうがバンドだろうがさ、アニソンとかコスプレだって、変わらないよ」
「私はキョウちゃんがあんなことになったのも自業自得だと思うんよ? キョウちゃん、自分勝手で、人にだってたくさん迷惑もかけてきたし」
「そんなことないって」と、止めるつもりで言っても春子は続けた。
「キョウちゃんは私と市川さんに勝ちたいの。東京とか、夢とか個性とか、そういう私や市川さんに勝って、認めてもらいたくて必死なの。ただの嫉妬ですよ、そんなの」
「いやいや。もしそうだとしたら俺にはとっくに勝ってるじゃん」
春子の話してくれた物語の結末があまりにも乱暴なので、僕は館林のことを大切に思い出していた。数年の時間の中で大人を知った春子にあの冬の面影はなく、女性だった。
「市川さんは、もうライブとかやらないんですか?」
「もうバンドは難しいよ」
「私は市川さんがステージに上がるところを」
「もう一度見たいです。って?」
「違います。見たことないですから。行きたかったのに」
もうそれは十分にわかったよ、と声には出さなかったけれど、話をそらすことで僕はそれを伝えた。
「だけどさ、なんで今更こんなイベントに呼ばれたんだろうね。俺も、春子も」
「ギター弾いてた人いたじゃないですか。あのメガネの、あの人とキョウちゃん結婚するらしいんです。だから、そういうの全部、私たちに」
「あー! あーねー。けど藤原は? 藤原とはどうなったんだよ」
「キョウちゃんはミクシィとかマイスペやってれば、いつか市川さんが絡んでくると思っていたんだと思いますよ」と春子は勢い話し続けた。「キョウちゃんのアップって、市川さんを意識した内容が多い気がするんです。意識したというか、真似たのかも。市川さんが以前やってたブログの文体とか、行った場所、やったこととか、なんか追っかけてる感じがするんです。それで今回、直接は言えないから私に頼んできたんだと思いますよ。私だってキョウちゃんと、もう五年? 四年? それくらい会ってなかったですから。最初は断りましたよ。だけど私も、市川さんと、ちょっと会いたかったですし」
「ちょっとがこの体たらくですよ」と僕が言うと春子は歯を見せて相好を崩した。
ああそうか、鈴が鳴るように笑う春子の笑い声も愛らしい左の八重歯も、確かに僕は知らなかった。
「俺のこと真似してどうすんだよ。音楽だって途中下車してんのに、そんなこと言われたら俺はなんか焦るわ。なんか探さないと、って焦る」
「だからそういうのもキョウちゃんの狙い通りなんじゃないですか。キョウちゃんは市川さんと離れてからもずっと市川さんの音楽を聴いたり、ブログを見たり、頑張ってたんですよ」
外は朝が呼吸を始めていた。東京の早朝にアスファルトやコンクリートの匂いが立ち上がり、新鮮な冷気が僕らを包んだ。以前からそうしていたように春子が僕の右手に左手を繋げると、僕は昨夜のキョウのことをすっかりと忘れた。春子は遠慮がちに下を向いてはにかみ、時々確かめるように身体を僕にぶつけて、ごめん、と笑ってはまたぶつけた。白く細く弱い春子の指先から新しい責任を感じると、傑作と感じながら完成しなかった曲のことを思い出した。すると交差点を過ぎる頃、忘れていた言葉が頭の裏側で蘇り、激しい憤りと、生まれつきの不安が僕の全身を熱くさせた。
『君の音楽も良かったよ。なんかさ、等身大で』
「藤原とはとっくに別れてますよ。キョウちゃんのことで結局先生辞めて、なんかアジア中心に国連のボランティア? みたいなのに参加してるみたいです」と春子が言った。
「そりゃ、バンドだってライブだって本当はまたやりたいよ。けどもう難しいんだよ」
夜の間に漂白された通りを行くと、ホテルの掃除夫がゴミをまとめたり、自転車のおばさんが何処かへと日常で、春子はコンビニでたらこのおにぎりを買った。おにぎりの海苔を外して白いままに食べる春子を見ていたけれど、僕は黙っていた。見つけられた春子の癖の中にキョウや館林を探していると、すれ違う会話の中で隠し隠れていた想いが溢れてきて僕はたまらなくなった。
「ねぇ市川さん、日曜日はいつもお休みですか? 次、いつ会えますか?」
「え?」

10 キョウと春子 過去


 二◯◯五年三週目の日曜日、僕は車でキョウに会いに行った。館林のインターチェンジを降りると道に迷ってしまい、キョウに電話をかけたらお父さんが説明(あまり上手ではなかった)してくれた。その日は家を出てから一時間五十分ほどでキョウの家についた。庭先で白い長袖のTシャツを着たキョウがウサギみたいに跳ね回りながら僕を待っていた。
キョウの家は古い二階建ての木造住宅で築四五十年といったところだった。通りから十メートル程の所に引戸の玄関があり、そこまでの庭、というよりも雑然とした敷地に小さな納屋と四畳半二間のうなぎの寝床のようなプレハブが建っている。納屋の前には小汚ない流木が山積していて、壊れて戸の開いた冷蔵庫にもなぜか流木が入っていた。その他に錆び付いた自転車が二台、蓋の割れた虫かご、閉じられたビーチパラソル、緑色のプラスチックのカゴに芽の出たジャガイモ、犬のいない犬小屋、物干し台には洗濯物がたくさん干してあった。
「車、ここに入れて」というキョウの指示に従って、納屋の前にあったちょうど車一台分の泥土スペースに僕は車を停めた。キョウの視線を感じながらいそいで助手席に散らばったCDのケースをダッシュボードに片付けて、トートバッグを後部座先からひっつかんで車を降りた。
「このぼんぼん小僧、いい車にのってえ」
「そんなことないよ。これ、中古だよ」嘘じゃなかった。キョウは額に入れて飾ってもいいくらいの笑顔で僕に顔を近づけてどきっとさせたかと思うと、くるっと背を向けて左右交互に拳を上げながら腰をふりふりおどけて笑った。
キョウの後につづいて母屋の玄関に向かうと大きな臼が目にとまった。本物の臼なんて小学校三年の冬休みに自治会の餅つき大会で見た以来で、僕はかがんで触れてみたくなった。
「もう、そんなんいいから」と、キョウが僕の襟を引っ張る。「早くしないとハコ来ちゃうっしょー」
「家で餅つきするんだね。すごいなぁ」ハコって子は誰だったっけ、と。
「いーから!」
途端、プレハブ小屋の扉が開いてゆらゆらと男が出てきた。ボーズ頭にトカゲのポイントが入った黒いジャージ、その下には『全力疾走』と縦に書かれたTシャツを着ている。身体の線は細く、腕が長く見えた。僕の姿を捉えると、細い目が一瞬より細くなったように見えた。
「ジン兄、おはよー」と、キョウは元気良く右手を上げながら言った。「昨日も夜勤だったん?」
「おう」という返事よりもサンダルを引きずる音の方が声高じゃないか。
「あの、初めまして。市川って言います」近づいてきたところで男の顔をよく見ると、左の頬に目尻から口角の辺りにかけてミミズが這うような傷跡があった。
「きもっ、れいくんきもっ」と、キョウが間を空けずに言ったからか、彼は黙ったままだった。邪魔そうに僕らの間を分けて玄関に入ったので、僕はもう一度「あの、宜しくお願いします」と、念を押すように彼の背中に言った。
「おう」45度だけ振り向いてそう言うと框を上がって台所の方へ入っていった。
「お兄さん、こわいね」と言ってキョウに向き直ると、不意にキョウは僕の頬に両手で触れて少しだけはにかんだ、かと思うと両眉を目一杯上げて息を大きく吸い込み、じゅんびじゅんびー、と言いながら僕を放って家の中へと駆け込んでしまった。
表に残されても中に入る権利はなく、僕は少し逃げるように道路でタバコを吸った。まだ慣れない赤城おろしの真ん中で、財布の中を見たり、ケータイで新曲の歌詞を見直したり、側溝の割れた蓋を踏んでみたりした。しばらくすると路地の向こうから自転車が一台こっちへ来るのが見えた。すぐにキョウの待ち人だとわかった。紛れもなく中学生、制服姿だったのだ。少し低めのサドルに清潔な重さが乗っかって軋る音が近づいてくる。一方向にだけ回転するペダルが迷いのない正義を孕んでいて僕を狼狽させた。むしろ僕に気づいてから自転車は速度を上げたように思えた。
「こんにちわー」と言いながら僕の目の前でブレーキ、声は白く、少し息が切れている。左右に小さくまとめた髪は青みを持つほどに黒く、短く揃えた前髪が女の子らしい景色を邪魔していないのは顔立ちが良いからだった。十代特有の自信と余裕に満ちていて、何かしていないと事は済まないというような危うさがこっちを見ていた。キョウもまたどこからか僕を見ている気がした。
「キョウちゃんは家ですか?」と右手を伸ばして彼女は水色の腕時計を確認した。
「うん。なんだろ。着替えてるみたいだよ」という僕の返事があまり重要ではなかったみたいで、自転車のスタンドを下ろすとぱたぱたと母屋に入っていった。あっという間に風景に馴染んでいく彼女もまた群馬だった。
彼女が見えなくなるとすぐに気球に穴を開けたようなキョウの笑い声が聞こえてきた。
「そーなんさー!」
「そーそーそーそー!」
「それ!」
二階のキョウの部屋の窓に切り込むような三角の陽光があたっていた。声の二人は姿を隠したままで、ただ館林の冬がすわっていた。帰ろう、と思って車のドアに手をかけると二人が姿を見せた。キョウはすぐに駆け寄ってきて僕の右手をとった。キョウの両手の中で右手がつぶれると横浜が随分遠く感じた。
「寒かったっしょ?」
「めっさくさ寒いよ。もう帰ろうかと思った」
「うるさい。走ってこい、走って。したら少しはあったまんべ」
なんだよそれは、と思ったのはキョウの恰好だ。黒いフリルのワンピースにライダースを被せて、バンズの赤いスニーカーでくるくると春子にお披露目している。春子は肩を少し傾けて、顔いっぱいに相槌をうっていた。
「とりあえず文真堂行くべ」とキョウが言うと、鼻水が垂れてきたので、どこでも構わないと思い、乗ってきた車のドアに僕は手をかけた。
「おい、もやし! なにしてるん? はやく乗れ」
吊り上がったキョウの視線の先は彼女の自転車の後ろだった。
そんなふうにキョウと、ハコこと春子と、僕の三人は二台の自転車で館林の市街地へ向かうことになった。田んぼの十字を縦に割いて、二台のペダルが一方向に回転すると、薄曇る冬を追い越して冷気は僕をあたためた。切れぎれとした呼吸と笑い声が、古した塀や鳥居に門、竹の林や低い柵をぬって走り、自動車道路と平行になったところで空に向かった。僕らについて来られたのは群馬の山の峰々だけだった。

11 セラピー3回目


 海保さんはピアノ教室に通っていました。だから海保さんはピアノを弾くんですね。もちろん家にはピアノがありました。茶色いアップライトでした。
三年生の時、社会科の昔しらべで家が近いという理由から海保さんと私は同じ班になったんです。
火の見櫓と長屋門をノートに大概に記して、班は海保さんの家に行くことになりました。
素晴らしい海保さんの生活! ピアノと紅茶とコロコロコミック! 庭に犬までいるじゃんよおお!
海保さんの部屋には白いベッドがあった。私は海保さんと睡眠する夢を100度は見ました。
海保さんは髪が長い、肌が白い、指が白い。
海保さんはバスケもしますし、英語を心得ています。
「海保さん、定規は英語で?」
「るうらあ」
私の背中がもぞもぞしました。
海保さんはピアノを弾きます。私は海保さんの弾くピアノを聴いたことがありません。
アマデウス。
いつまでも私の心の中では海保さんのピアノが鳴り続けています。


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