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『鉛色のカエル』8

26 キョウ 現在

 会場内に入ると懐かしい振動と熱気が僕の喉を渇かした。身体を揺らすほどの音量と自制心を欠いた歓声を聞くのは本当に久しぶりで、僕はにやけてしまった。
「こんばんわー。バハムルオフにようこそー」とピンク色のカツラをつけて、肩を見せたコスチュームの受付はメイン会場から響く音楽に負けないよう、その嘘みたいに高音質の声を張った。
「レイヤーの方はお名前とキャラ名をこちらにご署名くださーい」とグリーンの頭で子供用のドレスのような服を着たその隣の女は表情も嘘みたいだ。
「すごいね。これ大丈夫か。春子ちゃん大丈夫?」
「大丈夫です。だけど一人にしないでください」と言った春子は強張った顔をしていて、お化け屋敷に入ったときのそれと同じだった。
 メイン会場となっている大部屋へ続く廊下で、プラスチックみたいな青いカツラに学生服のような服を着た男が、僕と春子を見て「もしかして秒速のタカキとリサですか?」と言ったけれど、何もわからなかった。イベント会場は大きなカラオケボックスのワンフロアを貸し切っていて、エレベータが開いた場所から彼らのパーティーは始まっていた。目がクギ付けになってしまう衣装や新奇なヘアスタイル、ハロウィンとはまるで異質の変身が歩き回って、そこかしこでスマホのカメラは大袈裟なポーズに向けられていた。各部屋ではカラオケをしていたり、撮影会をしていたり、フライドポテトや唐揚げなどの軽食が並んでいたりして、大部屋からは楽器の生演奏が響いていた。
 僕と春子はゲストとして招待されていた。春子から連絡があったのはこの二週間ほど前で、ウェブ上に残していたバンドのホームページを通じてメールが届いた。『お久しぶりです』から始まった春子の短い文章には『懐かしい人がイベントで唄うそうなので』とされていた。
 僕と春子は午後六時に新宿駅で待ち合わせた。春子はベージュのコート、チェックのパンツ、グレーのストールは黒髪を束ねるように首にかけて、二十一歳よりもっと大人に見えた。「あれ、メガネかけてたっけ?」「あ、すいません」と言って黒縁のメガネを外すとき、白い蝋燭のような春子の手が僕に彼女の全身を想像させた。うるさい新宿の夜に向かって歩きながら、春子は僕の隣から離れないように、歩きを早めたり、人をかわしたり、また少し早めたりしながら並んで、ときどき変な咳払いをした。
「よーお、元犯罪者」と、のったりした声が僕らを引き止めたのはステージのある大部屋へと入る直前だった。僕はこの声の主を知っていた。
「逸平さん! ってか犯罪者ってなんすか」
「おー久しいねえ。相変わらずバカそうだあ。おーそっちは春子くん。んー、あー、そうかそうかあ。どうもすいません」と、逸平は春子に対してもっそりと頭を下げた。
「突然どうなさったんですか? ご無沙汰してます」と春子も頭を下げると「もったいないもったいない。頭下げるのはこのバカだけで大丈夫」と言って僕を指差した。
 逸平はこのイベントの主催者で周りから「アニサマ」と呼ばれていた。やっぱり学生服のような格好をしていて「それなんなんですか?」と僕が尋ねると「おまえなあ、場所を考えて質問してくれよお。ストラテジックミリタリーサービスだろおがあ」とのことでそれ以上は何も聞かなかった。 
「うちの姫はおかげさまで売れっ子です」と逸平は赤らんだ顔を緩めた。
「キョウちゃんの出番は何時くらいですか?」と言って春子はマリンブルーの腕時計を見た。「それとなにか飲み物っていただけますか? 市川さんも、ねえ」
「いや、俺はとりあえず平気だけど。え、ていうかキョウは人気があるんですか?」僕は逸平の話の続きが聞きたいと思った。
「えーと、あっちの仮眠室と大部屋の前にドリンクバーがあるから、適当に。なんと今回のバハオフは飲み放題食べ放題なのです。しかも長丁場だから仮眠推奨という」と言って逸平は歯と歯の隙間から笑い声を漏らした。
「逸平さん、キョウは元気にしてますか?」
「おーさすが元犯罪者。まーたうちの妹に手え出す気かあ。春子くん、離れなさい離れなさい。今夜はここにいて、我々と朝を待ちなさい」と言って春子の肩に触れてドリンクバーの方へと誘った。「いまヲタ芸タイムが終わったから、次のライブタイムにあいつ参戦するぞお。なんと今回のバンド参加はうちの姫とパルミさんという」
 キョウに会わなくなってどれくらい経ったのかと、大部屋から漏れてくる歓声や歌声を聴きながら僕は記憶の深くまで手を入れてみた。僕はただの三十一歳になってしまったけれど、春子は二十一歳の音大生になっている。じゃあキョウは? じっと思い返ると自分のしてきたことが怖くなって僕はトイレに行きたくなった。春子と逸平が仮眠室(と言っても長椅子が二つ並んでいるだけだ)からドリンクを持って出てきたので僕は春子に少し離れることを告げた。男性用に入ったはずなのに妙な声が個室から漏れている。僕の方が彼らに気を遣い息を殺して用をすませると、この後のことを考えてどっぷりと疲れが来てしまい、今すぐに鏡の中の男と家に帰りたいと思った。

27 自主イベント 過去

 虹の向こう側では僕の目指している音楽が軽々と演奏されていた。僕はおかしくなってしまいそうで。僕が誰よりも憧れを追いかけてきたのに、誰よりも上手く狂ってしまう自信があるのに。なぜこんなにも僕とは違うんだ? いや、わかってるって! 雨の中の少女と虹を見上げる蛙とは随分違うってこと、彼は全部自動的にやってるってことも。だけどもしチャンスを与えてくれるなら、よりよいチャンスを与えてくれるなら、僕は大戦のように頑張ることができるのに。魚や、鳥や、ナイフや、落雷みたいに覚悟だってしてる。だけど、みたいにってとこがすげえ怖いのも本当。だって彼は全部自動的にやってるんだから。
「それじゃあ、親友の市川くんに、この曲を捧げます」と海城はマイクに向かって呟やくと、ちゃんと僕を見つけてから微笑んだ。
 完璧な演奏になんて興味なかったけれど、彼らの完全な曲には優しい歌が添えられて僕の嫉みを忘れさせた。楓のカメラは何度もシャッターが切られ、レーベル担当者の両手はモノプランのために振り上げられていた。
 モノプランのステージが終わると会場の活気は天井まで届いているようだった。数え切れないおしゃべりと冷たい飲み物、照らし出すミラーボールには虹が渡って、誰だって笑っていた。ライブハウスは十分に盛況で、フロアに降りてきたブッキングマネージャーに僕は肩を抱かれた。音楽が同じ時間と空間とでふんだんに感情の共有を作っている。それぞれの日常は忘れさられ、全員で虹の向こう側を見つめていた。僕は主催者として誇りを感じながら、沢山の笑顔をかきわけて楽屋へ向かった。サチコモデラートの次はいよいよ僕らの出番が来る。

28 キョウ 現在

 「今夜召喚されたみなさん!」と男がマイクに叫ぶ声が響いた。「飲んでますか? 食べてますか? 歌ってますか? 踊ってますか? いよいよバハムルオフ新章第四幕、メインイベントの始動だ!」と叫び、大部屋天井中央のミラーボールに向かって人差し指を立てた。「先ずは本イベント主催者、我らが兄貴、アニサマに礼!」と男が言うとフロアにいた全員が揃って後ろに振り返り、僕と春子の横に立っていた逸平に向かってお辞儀をした。それに逸平が大仰な仕草で応えると笑いと拍手が一斉に起こった。
「それでは召喚ライブタイム、エントリイナンバー一番みちゃるさん。ミクシィでの表明! 曲は創聖のアクエリオン!」
 音楽が始まると何よりも驚いたのは歓声や合いの手の大きさだ。その場にいるほとんどの客が同じタイミング、同じポイントで「ハイ! ハイ!」と声を上げ、全身を使って同じ様に踊っている。その一体感は圧倒的で外から来た僕と春子はしばらく口を閉じれずにいたくらいだ。ステージでは金色の髪をして、看護士と巫女の装いをミキサーにかけてラミネート加工したような衣装の女の子が振り付きで歌って、彼女が右へ、フロアも右へ、彼女が左へ、フロアも左へ、両手を上に、フロアも上にというようにみんなまるきり楽しんでいるので僕と春子も次第にほころんだ。
「エントリイナンバー四番ふにゃ子さん。来たぞ来ました待ってました! 曲はトライアングラー!」と叫ばれたときには春子の手足も喜んでいて「この曲知ってるの?」と尋ねると「知りません」と即答する彼女の瞳が夢中だったので僕は感心した。ふにゃ子さんの歌が始まると場内はまた一段と熱くなった気がした。春子と逸平は時々両手を上げて軽く踊って、互いの格好を笑い合った。高揚した感情は僕の胸にもお誘いが来て、ギターのミドルレンジが云々、リズム隊の縦が云々と斜め上から観るのはやめた。
「次、るるる嬢のミクが終わったらいよいよ姫だぞお。もすこし前行くかあ?」と逸平が僕に言った。「あ、いや。そっすね。じゃあすこし」と僕が言うと逸平は強引にお客をかきわけてステージの傍へ僕と春子を案内した。ギターアンプに近づいてサウンドも迫力が増した。いよいよ次はキョウの出番が来る。

29 ステージ

 スポットライトの熱が喉をひりひりと乾かす。張り詰めた筋肉が時間を引き延ばす。一分が三分にも五分にも。目を閉じて考えると、あまりにも多くのことが思い浮かぶ。彼や彼女、家族や恋人、外の通りを歩く他人のことやビルの中で働く人、よりもっと広がって、遠くカリフォルニアに向かう馬車のことや、オクスフォードで生まれるロックスターのことなんかに意識は飛んでいく。マイクからは鉄の臭いがしている。未だ半分も歌っていない。重ねた練習の成果か歌は自然と口をついて、と思うと間違える。するとしばらくはそれを取り繕うことを考える、言葉のつじつまを合わせようと。間奏だ。ステージの中は音がいい。ドラムの音もベースの音もギターの音もこんなに近くに寄り添って。音の 真芯で快感が走り抜ける、裸の中を。バンドのメンバーと目が合う、目を合わせる。この瞬間、笑顔になったり、おどけたり、最高に幸せです。さあ、準備はできている。どこまでも手を伸ばそう、なんて思って本当に手を伸ばす。たくさんの視線を集めている。両手も上がっている。身体を揺らしている。笑顔がある、無口もあるけど涙もある。ダンスは誰のために、歌は誰のために!
 こっちをみて。ここにいるよ。

30 セラピー7回目

 ひんやりとした玄関ポーチに座って阿久和町の通りを眺めてみたらつまらなかったんです。車に梅の実を潰させる遊びは素敵だし、橋の上から国道を走るドライバーに手を振るのもなかなか、道路脇の白砂を集めて泥団子にふりかけるのもいい。
 だけど一人ぼっちの遊びはむつかしかった。私は野球男を眺めることにしました。それまでは彼をゆっくりと眺めたことはなかった。どんよりと重いまぶたみたいな雲は私の夏休みから太陽を横取りする気でした。そんな日です。
 野球男は河川敷のグラウンドより、ドルフィンスタジアムより、横浜スタジアムよりも広い球場で野球をしています。一人で野球をしてるんです。
 先発のピッチャーは野球男です。
 一番バッターは野球男です。
 私は野球をあまりよく知らない。
 リリーフは野球男です。
 四番バッターには野球男が立ちました。
 ランナーは一塁、二塁、三塁に野球男が立っています。
 ツーアウト満塁のチャンスにピンチ。ピッチャーの野球男は真剣な表情でサインを確認しています。ちがう、もう一度、と首を振る。そしてキャッチャーとの素晴らしい合意のもとにかっこよく頷きました。バッターボックスに立ってそれを迎え撃つ構えの四番野球男。両者次の一球で勝負の決着をつける覚悟です。私も覚悟しました。
 すっと背筋を伸ばし、二塁を一瞥、ピッチャー野球男、振りかぶって。
 投げた!
 打った!
 おおきいおおきいおおきいおおきいはいったホームラアアン!
 野球男は悔しがり下を向き、野球男はヘルメットをかなぐり捨てて喜んでいます。
 かげった太陽から彼の頭上にだけ光がさしました。
 その晩、僕は兄と姉から聞いたんです。
「あいつあたまおかしんだよ」
「れいくん、あれしんちゃんだよ」
 別の日の夕暮れ時のこと。世界中がお腹を空かせる時間帯、家に帰れば私にもうまいご飯が待っています。野球男が自転車に乗って帰ってきました。野球男は自転車を家の前にとめてビニール袋からおつかいの代物を取り出すと、そいつを目の前に持ち上げました。
 ブルドックのとんかつソースです。
 野球男は笑って、もう一度笑って、よだれを右手の甲で拭き取る仕草をしました。
 あの笑顔の向こうに野球男が見ていたものは大観衆のスタジアムでホームランを打つよりも素敵な光景だったに違いありません。



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