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『鉛色のカエル』7

21 キョウと楓 過去

『モノプランさんの昼イベントには行かれますか? ご一緒できるなら、ライブの後で少しイベントの打ち合わせできたらな、と思ってます』
 大きな楓の瞳は会話の際に独特の間で僕を見つめる。そのせいだけではないのだけど、三度目だった(対バンで会った日を含めて)その日のモノプランのライブは忘れられない。先ずモノプランの印象として記憶されたのは、十名を超えるお客の顔ぶれが前と同じだったということだ。僕のバンドには楓を含めても常連は五人といなかった。昼のイベントと言ってもライブハウスの中に入ってしまえば外は外で、いつものようにハイネケンや缶チューハイ、Mサイズのドリンクカップに注がれたアルコールが暗がりでいくつも傾いた。
 その日のお客の中から驚くべき二人があらわれたのはモノプランのために集まった三組のバンドの内、最初のバンドが演奏を終えた後だった。僕と楓は彼女の希望でステージに一番近いスタンドテーブルに寄り添って観ていたんだけど、曲間に楓の柔らかい声が何かをぼそぼそとつぶやくのが耳に入った。
「もう少しドラムが良ければな、ボーカルの声もちょっと」と彼女は言っていた。「市川さん、今のバンドどう思いますか? 私はちょっと好きにはなれないと思いました。だって、ステージに上がって人からお金をとるなら、最低限の演奏はしてくれないと無責任な気がしちゃうんですね。それなら文化祭とか部活でやれーって思っちゃうんです」
 僕は楓の瞳の中に自分が映っているのが怖くなって、喉が張り付いた。
「最近、バンドも多すぎですよね」
「え? うん、多いよね。だけど俺もその内の一つだからなんとも言えないけどね」
「いえいえ。市川さんは、市川さんたちは、市川さんたちのライブって」と楓が何かを言いかけたところに二人はやってきた。
「きぬー!」と喜んで楓に背後から飛びついたのはキョウだった。そしてキョウの後ろ、脱いだジャケットを片手に下げて、作為のない眼差しと抑制された微笑を浮かべて保護者のようにキョウを見守る男。伸びた背筋と黒縁眼鏡、細身の体と無地のスーツが正義感を醸し出してそこに立っていた。
「タガワさん、こんにちわ」と、窺うように僕を見た後に楓が言った。
「なん? きぬ。見つけたら話しかけてってゆったっしょー」と言ってキョウは楓の肩を親しげに小突いた。
「え? なにこれ? どうゆうこと? お互いに来るの知ってたの?」
「はい。メールで」とゆっくり頷く楓の目がキョウ、僕、キョウ、僕と動いた。
「きぬー、そいや市川さんとイベントの打ち合わせするーってゆってたいねー」と言いながら僕を見るキョウの自信に満ち溢れた顔ときたら。
「たいねーって、え? 待って。二人は既に友達なの?」と僕は楓に尋ねた。
「友達よー。なかよしよー。今度シモキタ来て、一緒に服屋めぐりしようねーって」と答えたのはキョウだった。
「あの、初めまして。藤原と申します。キョウからお話は伺っています」
 それはどこまで? どこまで聞いてここに来てんだよ! と冷静に微笑むスーツの胸ぐらを掴んで泥水にでも叩きつけてやりたい気持ちになったけど「キョウのこと、これからもよろしくお願いします」と堅苦しく頭を下げる藤原を見て僕は固まってしまった。
 キョウと藤原は僕らから離れた場所に落ち着いて、その後のライブを観ていた。回転するステージライトがときどき二人の顔を赤や青に染めるのを僕は横目で見た。キョウはくつろいだ表情で藤原に寄り添い、藤原はまっすぐな表情でステージに目を向けていた。気まぐれに楓の横顔を見てみると、それに気づいた楓は少しはにかんだ。「一生懸命、ですよね」「え? なにが?」と僕は楓に聞き返した。「だから、私も精一杯お手伝いします」
 モノプランの演奏が始まると僕はすぐそこにいるキョウのことを思い出していた。
 東京駅で電車を降りて、長いエスカレータを降りていく、ビルが高い、空は青い、たくさんの人が僕とは逆に上っていく、僕の来た道とは違う道を行くのだろう。僕にはわからない、すれ違う人たちの夢中や悲哀や喜びがどこから来てどこへ向かうのか、同じように彼らには僕の夢中や悲哀や喜びもわからないのだろう。キョウ以外にわかるはずがないのだ。キョウ、また東京タワーが離れていくよ。また横浜が近づいてくるよ。
 モノプランの演奏は完璧だね。とても良い曲ばかりだ。

22 楓 過去

 窓際の通りが見渡せる席に座って、僕がアイスコーヒーを注文すると楓はすぐに「私も同じものをください」といつもなら柔らかい声を上擦らせた。普段からコーヒーは飲むのか、と尋ねると「いえ、普段は飲みません」と言って僕の目を独特の間を持って見つめるので僕は慌てて目を逸らした。
「いくつかフライヤーのデザイン作ってみたんですけれど、見ていただけますか?」と楓はバッグを空けてA4のクリアファイルを二つ取り出した。「なんか緊張するな」
 僕は緊張していなかったけれど、キョウのことに関するいくつかの質問を我慢していた。今ここでそういった話をしてしまえば、僕と楓の関係が恋沙汰がらみの不自然なものになるに違いなかったからだ。
「すげーじゃん。まじかよ、超嬉しい。鬼怒川さん、すごいよ。やっぱり芸術学校? いや関係ないか、まじすごいよ」と言って僕は二枚のイラストを見て驚喜していた。
 一枚は雨の真ん中で虹色の傘を持った女の子が雨を喜ぶカエルたちに囲まれているもの(少女は無表情でこちらを見ている)で、一枚は大きくかかった虹に向かって三匹のカエルが両手を伸ばして跳ねているという絵だった。
「びびったよ。急にやる気出たよ。これどっちか決められないよ。両方なんらかの形で使わせてよ。ホームページとか、普段のフライヤーにもさ」と僕が言うと、楓は下を向いてアイスコーヒーを飲んだ。長いストローの中を黒いコーヒーが楓の赤い口の中に吸い込まれていく、顔を上げた楓の頰が紅潮しているのを僕は見つけた。
 それから僕と楓はキョウやバンドのことを少し離れて、芸術と技術の違いや、絵画とイラストの違い、写真と絵の違いなどについての話をした。得意になって話す僕の恥を楓は目を開いて大人しく受け入れてくれた。それでも「アートなんて金にならないよね」と僕が不用意に言ったときだけは「そうでしょうか。私はそんなことないと思っています」と楓は主張した。
「それじゃ、当日は俺らと一緒に十時に入って準備しよう」
「はい、楽しみです。その次はワンマンですね」
「いや、それはたぶん無理。残念だけど。なんかそんな気がしてる」
「だめですよ。弱気になったら。いつかコーネリアスと共演してくださいね」
「え? なんで? コーネリアスなの?」
「好きなんです」
 楓と駅で別れるとき、僕はもっと話がしたいと思っていたけれど、ついに誘うことはできなかった。店を出て少し歩くと彼女の関心が僕を離れて、彼女の胸の中に向けられていることが見て取れたからだ。下北沢の雑踏や狭い路地、たくさんの雑貨に新しい食べ物、そして音楽や演劇、一つ一つの風景が彼女の想像力を刺激して、彼女の真実を、世界の真実を照らすのだろう。僕はそんな風に日常と対峙する楓が羨ましかった。
 帰りの小田急線に一人で乗り込むと僕の身体は情けなく揺れてバランスを崩した。次の駅、そのまた次の駅と様々な人たちが乗り込んでくる。彼らに押し込められて僕は次第に下北沢のバンドマンから、大工の見習いの見習いぐらいの然るべき二十四歳に戻っていった。車窓の外を見ていると雨が降ってきて、僕は傘をどこで買おうかと考えた。住む街の駅に着くと僕は夕御飯のことと明日の現場のことを考えていた、コンビニで缶ビールとゲーム雑誌をなんとなく買って、傘を買い忘れて面倒になって濡れて帰った。
 その日の夜遅く、やっぱりキョウからメールが来た。楓と離れたあと、あれこれと勘繰ってすぐに連絡したい衝動が走ったけれど、キョウの思う壺だと気付いて僕は我慢していた。藤原と一緒だったのは明白に楓と僕の関係に対する当てこすりだ。
『さようなら』とキョウ。
『なんで?』とだけ打って返した。
『れいにしあわせになってほしいから わたしがいたらじゃまになる』
 僕は何も返信せずにシャワーを浴びて、もう一本缶ビールを開けて、楓のイラストを見ながらケータイを開いた。
『れいの世界はきらきらしてる わたしの世界はきれいじゃない れいはやさしいうたをうたってきれいな音をつないでください わたしはたびにでないといけないんだ
そこでいつかれいにあいたいです もういちどれいにあいたい れいじ たくさん怒ってくれてありがとう たくさんわらってくれてありがとう いろんなものみせてくれてありがとう たくさんおかねつかわせてごめんね いっしょにいてくれてありがとう じゃあね」
 深夜、喉が渇いて目を覚ますと、メールの着信があったことを知らせるケータイのライトがゆっくりと点滅していた。
『どうだどうだってみせるから そうだそうだってうなずいた
 なんだなんだってさわぐから いーだいーだってからかった 
 きらきらひかったきみの羽 落ちたの集めてもいいのかい?
 よどんでよごれたこの背中 集めた羽で飛べるかな?
 きみのいる場所へ飛べるかな』
「おいおい」と僕は声が出てしまった。

23 セラピー5回目

 まだ兄弟たちが眠っている朝の時間、私は蒲団の外へ思い切りよく飛び出して散歩に出てみたんです。畑に入るには朝は狭すぎるので私は階段の様子を見に行きました。途中誰とも会わず、道路のシデムシと清潔な太陽だけの朝でした。
 冷えたコンクリートの段々が静かに眠っていました。
 そよぐ葉の上ですまして揺れているオンブバッタに手を伸ばしたら跳ねて逃げました。どうやらカマキリは居ないようなので帰ろうとしたところ、誰もいない朝が気に入った私はユートピア公園の方から遠回りして帰ることに決めたんです。
 夕暮れに高く放った黄色と黒の線の入ったヒモ靴はどこに消えたのだろうか。
 朝のユートピア公園に着いて、私だけのブランコ、私だけのジャングルジム、私だけの柳の木、私だけの物置の裏をすべて確認しました。朝の公園は透明で、それを発見した私は驚喜していたんですね。公園の中心に立って空を仰ぐと高いところに青がありましたよ。
 やめてくれ!
 海保さんが犬を連れてユートピア公園にやってきたんです。
 私は公園のすべてを彼女にあげても良かった。ただ準備がまだだったんです。
「名前はロン、ジャーマンシェパード」
 それにしても、なんだって犬ってやつはあんなに無表情なんだ? スカした顔して頬を舐めたり、手を舐めたりとよお! まあ、おかげで朝の海保さんに会えたから感謝してるよ。イヌッコロ。ヌッコロ大魔王。
 私はジャーマンポテトをよく食べます。粒マスタードをたっぷり入れてください。

24 自主イベント 過去

 イベントに向けて作った曲を演奏するとき、僕は自信と誇りで痙攣していた。
「よっしゃ、じゃあもう一回通しでやって、一発休憩しよう」
「へーい」とベースのヨネが返事したかと思うと、少し間があって「だるっ」と疲れたような声でドラムのクマが呟いた。
「だりーってなんだよ。だりーってよー。疲れた? 俺ら最近寝不足だしな。よっしゃわかった。ちょい休憩しよう。だりーなんて言われたら出来ませんわ私」
「言ってないよ?」
「え? 言ったじゃん」
「は? 言ってねーし」
 練習が終わると、僕らは午前二時過ぎにそれぞれの玄関ドアを開けた。
 イベント主催者としての僕らの役目はコンセプトを用意すること、出演バンドを呼ぶこと、お客を呼ぶこと、演奏をすることだった。コンセプトは『虹』、ライブハウスの天井からいくつも銀テープを下げることで光を反射させた虹に。個性的なバンドを呼んでカラフルな虹に。オーバーザレインボウというちょろいテーマ付きで。新しい曲も準備して鼻を高くしていた僕はモノプランを呼ぶことに躊躇なかった。楓に聞いたところによると、海城は僕らのイベントに出ることを楽しみにしているらしい。
 電話番号も知っていたけれど、僕はメールでモノプランのベース担当田中に連絡した。
 次の日の夜、スタジオ練習の際に田中から返信があった。
『ご無沙汰してます。イベントへのお誘い、有難うございます。是非参加させてください。 ノルマ等の条件、持ち時間等決まり次第・・・』
「決まったよ。モノプラン」
「おー。モノプランと共演かー、気合入るわ。ねークマ、あら、クマゴローちゃん?」
「え? なに? あー決まったんだ。よかったね」
 一度情熱が向きを変えて歩き出せば、どんどんと離れていくだけで、結局遠く、遠くて声も届かない、だから僕はじっとしている他になかった。
『・・・ 早めに連絡してください。僕らも準備して挑みますよ! それと当日はレーベルの担当者も来るのでゲスト枠を少し頂けますか?』
「まじかよ」

 目が覚めて聞こえたのは雨の音で、僕は誰を呪えばいいのか考えたけれど、結局相手が見つからずに頭を掻いた。この雨期が始まって随分長く、最後の大雨は僕を選んで降ってきた。機材を乗せた僕らのワゴンが国道を折れて踏切を渡り、下北沢の路地に入ると、雨に沈んだ表情が車の窓越しに幾つも通り過ぎた。それでも僕らのコンセプトは『虹』、どのバンドよりも早くライブハウスに入って、虹を超えていける場所を作るためにハサミやガムテープで工作をした。脚立に登って銀テープをいくつもぶら下げると、乱反射する光の中に虹が見えた気がして、僕らは揃って声を上げた。
「虹だ! 虹!」「イェー」「ディスコー!」と肩を叩き合い、一堂拍手した。
 楓は笑顔のまま屈んだり回り込んだり、カメラを何度も構えた。スタッフたちは一段と協力的に動いてくれて、普段言わない業界の与太話や噂話を話したりした。落ち着いている人間なんて一人もいなくて、お腹を空いたことも母親のことですら忘れて、それぞれ虹橋に足を掛けた。
「いよいよだねえ」と言ったのは誰もで。「これでお客ぜんっぜん来なかったらウケるよね」「いや、わらえねーよ」
 リハが始まりドラムがキックを踏むと、出演バンドがぞろぞろと外から入ってきた。電車の中で痴漢を見たとか、新発売のカップ麺が旨いだとか、タバコを買い忘れたとか、雨の中集まってくれた仲間がライブハウスの温度を上げて「あーそうかそうか、虹か! これ、いーねー」と言う声も聞こえて、僕のギターを持つ手が笑い出した。
 そしてモノプラン、彼らがドアを開けて光を背負って入ってきたとき、僕は確かに見知らぬ男を確認した。そして絶命手前の希望を込めて一曲だけリハで通して見せた。
「はい、新しいバンド見つけました!」と男がケータイを持って外に出ていくと「ええ、わかってます。学歴、職歴、出身、身長体重、よく聴く音楽、ビートルズについてどう思うか、すべて確認します。モノプランだけじゃないんです」
 演奏中にそんな会話が聞こえるはずもなく、実際のところ、スーツの男はこちらをちらりとも見ずにケータイと手帳を交互に開いていただけだ。
 僕らはリハを終えると先ずは集まってくれたみんなに感謝を述べた。

「海城くん、どうしたの?」僕は楽屋を出てフロアに残る海城に声を掛けに来た。
「市川くん、僕の家は昔から菓子問屋でさ、弟がいるんだけど・・・」と海城は何か言いかけて胸に聞こえるほどに静かな顔で僕を見つめ直し、丁寧に話し始めた。
「音楽業界は沈みかかった船だ。それに乗るような真似はやめることだ、ってトムが言ってたよ」レディオヘッドのトムヨークが雑誌か何かでそんなことを言っていたのは僕も読んだ。
「そう遠くない未来に音楽は自由を手にいれる。その時にやっと原初的な楽しみ方に戻って来るんだ。音楽はかつて王や神のものだった。それが楽譜ができて、ピアノができて、市民にも演奏したり、歌ったり、踊ったりする楽しみが巡ってきたんだよ。ところが蓄音機が全てを狂わせた。音楽をパックして売ることで、人々から時間を奪って金に変えたんだよ。そこに利権が生まれて、商業として拡大したんだ」
「それもトムが言ってたの?」
「これは僕。僕は市川くんが羨ましいよ。自分のことを歌にしてる」
「商売になったからビートルズもレディオヘッドも出てきたんじゃないの? 競争が生まれないとさ。よくわかんねーけど。僕は海城くんが羨ましいよ」
 僕と海城はステージに寄りかかって虹を見上げた。散らかった机の上も、食べ残したリンゴ飴も、埋めた場所を忘れた宝物や、外されない風鈴も、正しく間違えて、僕らは同じようにしてきたはずだ。
「担当にさ。僕の歌詞じゃ売れないから、もっと明るい歌を作れって言われたよ」
「そっか。うわー。そっか。そっかそっかー。そーだよね。うん、そら贅沢だわ」

25 セラピー6回目

 ひろちゃんのすることにだって間違いはあるはずだ。私にだって彼より素敵な点があって然るべきじゃないのか、そう思うこともありました。
「ひろちゃん。じゃあさ、今日が日本シリーズ決勝でキヨハラ対クワタだったとしても行くの?」
「うん。行くよ」
「じゃあさ、もしもサガのスリーが出て、それが今日発売日だったとしても行くの?」
「うん。行くよ。ぼく発売日気にしないよ」
「じゃあさ、今晩うちの家族とひろちゃんちの家族とカルビハウスに一緒に行くとしても行く、あー、来ないの?」
「うん。行かない」
「ひろちゃん、なんで? なんで急にカオリちゃんとばっか遊ぶようになったの?」
「わかんない。呼ばれるから行くだけだよ」
「ごめんねすればいいじゃん」
「しないよ。ぼくも行きたいもん」
「ひろちゃんは女ずきだな」
「ちがうよ」
「そうだよ」
「ちがうよ」
「そうだよ」



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