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『鉛色のカエル』6

18 キョウ 過去

 キョウのお父さんと山に行くことになった日の空は見える限りに青かった。夏の朝が広々と落ち着いていて、僕は久しぶりにオアシスの『モーニンググローリー』を聴きながら保土ヶ谷バイパスに乗っかった。
 軒先の水滴につられて見上げると、キョウの家の棟と並ぶように群馬の山々は近くに見えて、山霧が渡り立体になり、山鳴りが聞こえそうなほどに透き通っていた。キョウに腕を引かれて玄関に入ると「おい、おはよう。あさはん喰ってきたん?」と出会い頭にキョウのお父さんは言った。キョウの家は玄関框を上がるとそこがすぐに居間なので、言葉を準備する前に玄関が開いてしまうとこうなるのだ。ちゃぶ台の上にはひっくり返された茶碗が四つ、一目でそれぞれが誰のために用意された茶碗か理解できた。
「あの、おはようございます。食べてきました。あれ、ジン平さんは?」
「もう一杯ぐらい食えんべ。わけーんだから。あれは寝てる」と言ってお父さんはテレビのチャンネルをパチパチ変えた。「おーい、おねーちゃん手伝ってー」と台所からキョウのお母さんの声がするとキョウは靴を脱ぎ捨て「はいはーい」と台所へ消えてしまった。
 お父さんは座椅子に座り、足を伸ばしてはいるけれど上体を小さく前後に揺らして落ち着きがなく、僕の方は畳の上に正しく座ることで身を守ろうと集中した。「なん、建築の仕事だって? 設計かよ」と、テレビに話しかけたのかと思うほどにさりげなくお父さんは言った。「はい? え、あの、設計ではなくて、施工っていうか、大工です」「あーそー、大工。へー、大工って顔じゃねーな」と笑ってお父さんは僕の顔を一度だけ見てすぐにテレビに視線を戻した。「学校は?」学校? 建築系の学校か? と思い「いや、そういうのは出てないっす」と言うと「なんだよ中卒かよ。うちと一緒だ。うちもみんな中卒」と言ってお父さんは肩を揺らして笑った。「あ、いや、違います。いちおう大学出 てます。ただ建築の勉強はしてないんです」と言い直すと「なんだよ。やっぱりインテリかー」と言って自分の言葉に笑うようにふうふうと鼻息を漏らした。
「はーい。みそしるー。とってーとってー」とキョウがお盆で揺れる味噌汁を四つ運んでくると、僕とお父さんははじかれたように立ち上がってその味噌汁を二つずつ受け取った。台所からは焼き魚の匂いが漂い、食卓には正真正銘日本の朝ごはんの役者が揃った。キュウリの漬物、味付け海苔、なめたけ、パックの納豆、アジの開き、玉ねぎとジャガイモの味噌汁、大盛りの白飯、そして麦茶がそれぞれ型の異なるグラスに注がれて、キョウが僕の横に座り、お母さんがエプロンを外して席に着くと、「いっただきまーす」とキョウは真っ先に味噌汁を啜った。僕はあまりにも定型的なその朝ごはんを見て旅館みたいだな、と思ったけど黙っていた。キョウとご両親は僕の存在をまるで異物と感じていない 様子で、三人の箸がちゃぶ台の上を行き交った。
 キョウは立膝をついて食べていて、そのことを両親は注意しないのかと思うと、お母さんは背中を曲げてあぐら、お父さんは座椅子のままテレビに向かって茶碗を持ち、ときどきちゃぶ台側を向いておかずをとり、またテレビに向くという具合。正座をしているのは僕だけだった。こうして朝ごはんに呼ばれるのは嬉しいことなのだけれど、このときはほとんど箸が進まなかった。
「なん、れいちゃん、喰えないん? そんなんだからもやしなんさ」と言ったのはお母さんだった。キョウは小さな茶碗で二回おかわりしていた。
 山へ行くと言われても僕はなに一つ準備という準備はしていなくて、そのことを一座に告白すると「え? 平気なんじゃん、べつ」とキョウは言った。これを聞いていたお父さんが「登山じゃねーから、平気だんべー。川に流木取り行くだけだから」と言うと「山じゃねーんかよ」とキョウとお母さんが揃って言ったので僕は声を出して笑った。その勢いでキュウリの塩漬けを一切れ口に入れると思いがけず瑞々しかった。

 キョウのお父さんの車で(僕の車で出かけることを申し出たけど断られた)三十分も走ると、家や建物はまばらになり、田畑広がり山の迫る風景になった。
「赤城の山も今宵限り、生まれ故郷の国定村や。あら? 続きなんだっけ」
「わかんねなら言いなさんなー」といったやりとりを続けたのはキョウの両親だった。
 キョウと僕は後部座席で黙っていた。キョウはときどき僕の手に触れ、またときどきは僕の膝をぽんぽんと叩くので、その度に僕はキョウの顔を見た。キョウは前席のデートに気を遣い、声を出さないように伸ばした舌を噛んで、目尻にシワを寄せていた。
 車の窓を少し開けると清涼な山の空気が顔を洗い、心地良いあまりに僕もキョウも窓を全開にした。陽光が山の輪郭を色濃く陰らせて、眩しいほどに緑は輝き、道が狭くなると枝葉の影とその木漏れ日が車とキョウの笑顔を閃かせた。
「おーし、この辺でよかんべ」と言ってお父さんが車を脇に寄せたのはまだ山の只中、上りの中途といった場所だった。お父さんはすかさず車を降りて、ガードレールから谷の方を覗くと、僕らに車を降りて来いと合図した。涼やかなその流れは、降りるのに不自由なさそうな傾斜の下で、岩をくぐって、小さな滝を作り、ところどころでくるくると回って、陽を反射させながら下流の方へと伸びていた。
「ほっほー、かーわ、かーわ」と言って、運動の上手なキョウがぴょこぴょこと一番に降りていくと、お父さん、お母さん、僕の順でそれに続いた。
「いーのあっかなー」と、そこいらを歩き回り流木を探すお父さん。
「怪我しなさんなー」と、しゃがみこんでタバコを吸うお母さん。
「おっおっ、あぶね、あぶね」と、飛び跳ねて岩を渡るキョウ。
 ここは群馬県なのだ。山の名前はわからないけれど、この光景は群馬だ、と僕は感じて独りになっていた。

19 セラピー4回目

 私とひろちゃんは早いうちから世界全体と戦っていました。時々は兄も姉も一緒に戦った。私たちは裕福な時間と冷暖房をたっぷり使って日本にとってふさわしい兵隊になったんです。

 右、左、下、上、A、B。
 残機30になる。
 29回死んでも生き返る。
「みぎひだりしたうええーびー! はい成功!」
「さいしょ、スプレッドちょうだいね。レーザーはあげるから」

 つばさはつ よいつよい つよいつよい 
 つよいつよ いつよいつ よいなあああ
 存在しない謎のチームと試合できる。
「うわあ、ほんとだ! なんだこいつら」
「バグってるじゃん。バグってるよ、これ」

 星が移動してる間に、ツーコンのAを押しながら、右9回、上2回、左2回、下9回。
 無敵になる。
「あれ? もっかい」
「ねえ、おれ死んでもいいからふつうにやりたいよ」
「おまえすぐ死ぬんだからまってろって。無敵になんだよ。あれ? もっかい」

「あんたたち! いい加減にぴこぴこやめなさい! 脳が開いてバカになるよ!」

 8面、木造家屋の屋根の上で右に向かって手裏剣を投げるとはじかれる音がする。そこへ32回手裏剣を投げると高橋名人が出現。さらに16回投げると20万点もらえる。
「にんにんにんにんにんにんにん」
「あ! 高橋名人でた! にんにんにんにんにんにんにん」

 ゆうて いみや おうきむ こうほ りいゆ うじとり やまあ
 きらぺ ぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺぺ
 レベル48で開始できる。ただし名前は『もょもと』
「これなんて読むのかね。もよもと。みょもと。もよもと。みょんもと」
「さかいのくんはむよもとって言ってたよ。もよもと。むよもと。みょうもと」

 チェーンソー
 一定の確率で一撃死。
 かみをこうげき! かみはバラバラになった
「わーチェーンソーつえー。かみよえー」
「かみはバラバラになった」
「かみはバラバラになった!」

「れいじ、学校に行ったら盲腸で入院してたって言うのよ。わかった?」
 ベッドの上で退屈と空腹を持て余していた私に母がクリームシチューをタッパーに入れて持ってきてくれました。
 大人になったら北海道へ行こう!
 腹が膨れてベッドに横になると、腐ったチーズ模様の天井に広げた作戦図面を見て笑ってしまいました。
 北海道のところに赤い字で『クリームシチュー!』とマーキングされていたからです。

20 キョウ 過去

 
 車で少し走ると道の駅に着いた。蕎麦を食べに行くと言うからてっきり蕎麦屋に行くのかと思っていたら、道の駅に併設された軽食喫茶のことだった。キョウの両親はキュウリやキャベツにかき菜などの地の野菜を見て回り、キョウと僕は土産物などを見て回った。キョウの両親はキュウリを箱で買って、キョウはミルクソフトクリームを食べたけど、僕は何も買わなかった。
「はい、お待たせ。そば喰って帰んべ」と言ったお母さんに付き従い、僕らはガラス張りで景色の悪くない軽食喫茶に入った。四人掛けの席に全員が座ると、お母さんは各席に置かれたメニューには触れず「すいません」と、すぐに店員を呼び「ざるそばが四つに、舞茸のてんぷら」と注文したので僕は違和感を覚えた。メニューに目をやると他にもカツ丼やハンバーグにエビフライ、カレーだってある。僕は正直に言うとカツ丼が食べたかった。それにてんぷらを頼むなら海老が食べたかった。そのことをキョウに告げようとキョウの顔を見て僕は理解した。キョウは顔を正面に向けたままで目だけをメニューに落とし、少し舌を噛んで、息を深めに吸い込み、そば以外の料理に対する欲望が喋り出さない ようにしていた。キョウは自分の家族のことをよく知っているのだ。このとき、もしもキョウの顔を見ていなかったら僕はこの家族を悲しませていたに違いない。
「流木は、なにか見つかったんですか?」僕はそばを食べながら尋ねた。
「だめ、小さい。台風来たらまた来るわ」と言ってお父さんは舞茸のてんぷらをつゆに深く沈めて、それをほとんど飲むようにして食べた。
「拾った流木は、なにに使うんですか? 業者に売るとか、するんですか?」と僕がお父さんに聞くと「ないないないない。そんなんないんさ。たーだ拾うだけ」と言って持ち上げたそばを威勢よく啜ったのはお母さんで「あたしが赤ん坊の頃からずっとなんさ。変人だから」と言って一度グラスの水を飲んだのはキョウだった。それを見ていたお父さんは表情を何も変えずに「いいの探して、拾って、たまに持って帰るだけ」ともごもご言って、一番にそばを食べ終えた。
「理解できんしょ?」お父さんの残したてんぷらを食べながらキョウは僕に言ったけれど、僕はお父さんの顔を初めて覚える気になっていたので黙っていた。

 キョウが夏祭りに出かける準備をしているあいだ、僕は居間で待たされていた。
「一緒に行ったんけ?」「そうそう、四人で」夕方五時を過ぎて朝食を摂っているのはキョウの兄のジン平だった。僕は狭い居間で気配を消す努力をして、興味のないテレビ番組に逃げたままこの家族の会話を聞いていた。
「暇じゃのー、あんたら」と言ったジン平は僕の横顔を見たかもしれない。
「あんた、夜勤は交代制じゃないん? 今度の木曜、ばあさん病院なんさ」とお母さんが言ったのを聞いて僕は初めてこの家のどこかにキョウの祖母が居ることを知った。
「夜勤のが稼げるんじゃ。俺はあんたらと違って働きもんなんよ」次いで漬物をぽり、ぽり、とゆっくり噛む音が耳につき「ママは働いてんべ。えらそーに」とお母さんの怒鳴りが響いた。あんたら? ママは? それでも僕は黙っていた。
「横浜の兄ちゃん、大工なんだって。な」と、無責任なボールを僕に寄越したのはお父さんだった。「はい? あ、そうっすね」と聞いていなかったフリをしつつ、視線だけでジン平を確認すると、こっちは見ずに焼き魚の身をほぐしていた。
「大工って面じゃねーな」とジン平は声を出した。「大工なら、この家のリフォームしてくれよ。あちこちイかれてんさ。いつか俺が建て直すけどよ」ジン平はそう言って箸を止めて、改めて確かめるように僕の顔を見つめた。
 僕が返事をしようと姿勢を正すと、二階からキョウが駆け下りてきた。キョウは黒いポークパイ帽を被り、黄色いシャツに黒いサスペンダーを掛けてジーンズを履いていた。
「どう? かわいー?」と一座に向けて彼女は回って見せた。
「なんじゃその格好」
「おーかわいーかわいー、おねえちゃんが一番かわいー」
「あ、浴衣じゃないんだね」何も言わずに笑っていたのはお父さんだった。
 僕は夜の田んぼを歩いてみたかったけれど、キョウの指示で僕の車でお祭りの催される本町通りに向かった。キョウはいつもより大きな声で昼間の遠足を両親がどれほど楽しんでいたかを話すと、車の窓から館林のあちこちを褒め、ひろげて群馬を褒めた。僕は概ね賛同したけれど「群馬の人間は狭い世界で一生懸命なんさ」という意見には引っかかるものがあった。自分の生まれ育った街を横浜から来た男の車に乗って眺めると、今まで見えていなかったものがキョウには見えたのかもしれない。僕は僕で、生まれ育った街を離れ、横浜を知らないキョウを車に乗せて、群馬の夏祭りに出向くのは不思議なことだな、と考えていた。


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