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『鉛色のカエル』9

31 自主イベントの後で 過去

「多香美さんはなぜバンドスタッフされてるんですか?」と楓がカメラを置いて多香美に声をかけたところから、またもう一つの夜が始まった。
 フロアを照らす疲れたライトが寄せられたテーブルの上とそこを囲む乾いた食べ物や炭酸飲料やめいめいの表情に陰影をつけている。

「え? 好きだからだよ。なんかね。わたし結構世話好きなんだよね」
「じゃあ多香美さんも何か作ったりとか、そういうわけじゃないんですね。わたしは市川さん達と一緒に活動して行けたらなって思ってて。イラストと音楽を融合したイベントをやってる先輩がいるんです。そういうことをやっていきたくて」

「今日は大成功でしたね。今日くらい人が集まれば、ワンマンも」
「いや、今はなんか空っぽで、そこまで考えられないよ」
「市川くん、燃え尽き症候群だよ、それ。僕も初めてイベントやったときになったよ」

「えー! キョウちゃん、先生と付き合ってたのー?」
「え? 誰が誰が? なんですか?」
「嘘でしょ!」
「まずかった?」
「良いんさ。べつ関係ないし」
「あー、だけどそういう娘いたいた。同級生に一人くらい? 先生と付き合っちゃって、噂になってーみたいな。卒業してから先生と結婚した娘もいるし。けど大体そういう娘ってイタイ子が多いんだよね。あ、まって、これキョウちゃんのことじゃないよ?」

「いまかかってるこれって、もしかして今度出るモノプランのCD?」
「クオリティー半端ねー」
「え、なにこれ。こんなに違うもんなの?」
「うわー」
「あ、歌詞が少し変わってる。変えたんですか?」
「大人のアドバイスにね。従ったんだよね」
「こういう場所で聴くと若干音圧やりすぎ感あるね。あの時さ、正直ミキサーの人の無言の圧力がすごくて、リテイク頼み辛かったよ」

「ねーれいちゃん、腹減った。コンビニ行こー?」

「え? あの子いくつなの?」
「十四歳」
「え、それってヤバくない? うちの店も」
「ヤバいっちゃヤバイし、平気っちゃ平気っしょ」
 
「えー、市川くんガテン系だったの?」
「そうなんだあ」
「じゃあ自分で家作れるじゃん」
「肉体労働は大変だろうね」
「今寒いでしょ? 外仕事」
「大工かあ」

「だからこの人には彼女がいるの。ここにいるでしょ。この人がそう。ね。だから幸せになりたかったらこの人の事は忘れて、普通に十代を生きるか、別のやつと付き合うかなんだって!」
「彼女なんて思ってるの。クマさんだけですけどね」
「いつから連絡とってたの?」と僕はキョウとクマに向かって聞いた。
「夏、七月くらい、だいね? ライブの後だから」
「いやもうちょっと前じゃね? ほら、新宿に一回」
「そかそか、じゃあ六月か」
「思っきし忘れてっし」
「わりんね」
「ん? 二人で会ったこともあるの?」
「ごめんね。れいちゃん。れいちゃんにもっと近づきたかったんさ」

「えっと、ちょっといいですか、クマゴローさんバンドやめちゃうんですか?」
「抜けるよ。最近ずっと面白くなかったし。ていうか、向こうでやりだして気づいたんだけど、ウチのやり方ってつまんないよ。れいちがほとんど作るじゃん。ドラムも。なんかバンドっぽくないんだなって。カッチリしすぎててさ。俺とヨネさんはカラーが出せないっていうか。ていうかさ。ていうか! あんたさんは全然俺たちに興味無いじゃん。俺じゃなくても関係なくねーかって話なんだよね」
「子供かお前は。興味なくねーよ。普通に友達じゃんかよ」
「俺はさ。俺だってさ。れいちのこと好きなのにさ。俺そんなにレディオヘッドとかわかんねーし。話しについてけないし。なんかさ、必要と、されてないんじゃないかなーってさ」

「えー、それって褒めてなくないですか?」
「個性的ってのは嬉しいけど、一生懸命ってなに? 必死だなってこと?」
「今日のイベントもみんなで作って、みんなで完成させて、手作りで。精一杯やって達成したじゃないですか。全力投球? 庶民派? ちょっとうまく言えません」
「それって要するにかなり微妙なんじゃないの?」
「え、じゃあモノプランは?」
「私なんかが言うと変ですけど、才能あると思います」
「いやいやかえでちゃーん」

 フロアにはモノプランのデビュー盤が終わりを迎えようと、静かなギターのアルペエジオが複雑に絡み五拍子、それでも違和感のない優しいイントロが聴こえてきた。

「あ、『サイコテラピスト』だ!」イントロを聴いて思わず声を上げたのはキョウだった。
「本当だ。私もこの曲大好きです」
「すーげーいい曲、すーげーいい音、なんだこれ」
「うわー、やっぱ、うーん、すげーなモノプラン」
「なんかさ、本物って感じするよね」
「お前らさ、感心ばっかしてねーで、どうしたらこういう曲作れるか考えろよ。もっと練習するとか、勉強するとかよー。結局は逃げてるだけじゃねーかよ」
「逃げてるわけじゃないんさ。れいちはわかってないな。そうやって周りにあたって。みんな逃げてるわけじゃなくって、頑張ってもどうしようもないってこともあるっしょ。わかるべ?」

 BGMとして流されたモノプランのデビュー盤が終わり、フロアに静けさが戻るとモノプランの介添人はPAブースから離れて満足そうな大人の笑顔で海城に近づいてきた。
「次はアップテンポのわかりやすい曲をシングルに持っていこう。こないだ聴かせてもらったデモの歌詞も少し変えてさ」
「小林さん、小林さんも観たでしょ? 市川くんたちのライブ。業界の人から見て彼らはどうですか?」
「あー、いいんじゃない? もう一台のギターアンプからループ流すのは良い作戦だね。君の音楽もよかったよ。なんかさ、等身大で」
「ループステーションね! あれ、買ってよかったよね。いやーキタコレ」
「そうですそうです! それです! 私もそれが言いたかった! なんかしっくりくる言葉が見つからなくて、そうそう。うん。市川さんたちは等身大なんですよ。等身大で頑張ってる」
「なるほどね。そうかもしれないね」
「だけどなんかそれ上からじゃない?」
「え? 等身大ってどういう意味だ? これ」
「等身大? なんか一生懸命がんばってるってことじゃなかった?」
「そうだよ。なんか背伸びしないでありのままの自分でー、みたいな?」
「そうですそうです。そういう感じなんです」
「なんか超微妙じゃねーか? それ」
「それ以下でもそれ以上でもないって意味だろ」
「あ? いまなんつった?」
「だから、それ以下でも、それ以上でもないって意味だろっての」

 
 僕の頭に人間らしい感覚が戻ったのはどれくらい後だったろうか。フロアには叩きつけられた飲み物と跳ね飛んだピーナツなどが散らばっていて、その脇にクマはうずくまり、お腹を押さえて倒れていた。多香美は濡らしたハンカチを小林に差し出して何度も頭を下げていたけど、当の小林は別に構わないという様子で「大丈夫」とハンカチを拒んだ。口を両手で塞いで怯えた目を僕に向ける楓や呆然と立ち尽くして何も言わないモノプランの三人を見て、僕はようやく事態の重さがわかり始めていた。
「あんた本当に最悪。ねえ、れい! そういうところなんだよ?」多香美が勃然と声を上げて、べらべらと畳み掛けてきた。「繊細っていうか、感受性が豊かみたいなふりしてるけどさ、はっきり言ってただのめんどくさい困ったちゃんなんだよ? 周りからしてみれば。いっつもいっつも悩んでて。こんな風に短気だし、勝手だし、いい加減に大人になってよ!」
「多香美さん、やめてください! もう怒らないで。もう怒らないであげてください」
 楓は多香美にしがみついて目を潤ませていた。それを見ていると、もうこの娘は僕と一緒にアートイベントを作ろうなんて考えないだろうな、と胸がつぶれた。
「もう俺たちも帰ろう」と、ほどなくして海城が声をかけると近藤と田中は黙ってそれに応じた。小林の背中を撫ぜながら挨拶もなく歩きだす海城の背中を見ていると、もうモノプランに会うこともないだろうな、と胸は簡単にはりさけた。
「俺も車とってくるよ。あの娘、どうすんの?」とヨネが聞いてもクマと多香美は黙っていて、僕はもう一度クマを殴ってやろうかと本当に思った。
「私も、そろそろ帰りますけど、あの、今日、写真。たくさん撮ったので今度また」と言い残して楓は足早に姿を消した。
 見回すとスタッフたちの姿が見えなくて、上にこの事件を報告に行ったのだろうかと思った。ステージから最も遠いPAブースの前で壁に寄りかかり、少し顎を上げて僕の輪郭を暗がりから正確に削り出そうとしているのは銀色カエルの女だった。
 沈黙の中しばらくして、クマがテーブルに残った缶ビールを開けて僕に差し出した。
「れいち。俺はれいちのそういうところが好きだったよ。お互い頑張ろうぜ」
 僕はビールを受け取らなかった。
「ねーれいちゃん、駅まで送って。そしたらまだ帰れる」
「は?」とクマ。
「ねーれいちゃん、腹減った。なんか喰って帰るからお金ちょーだい」
「え、なんなのこの娘」と多香美。
「ねーれいちゃん! 腹減った! なんか喰って帰るからお金ちょーだい!」
 キョウの表情が見えているのは僕だけだった。
 十時半過ぎにキョウを改札に見送って、ヨネのステーションワゴンで横浜に向かった。車中には沈黙が座り込んでいて、時々、「道路空いてるな」「明日天気どうかな」「なんかラーメン食いたいな」とヨネはハンドルに向かって呟いて、助手席のクマはもぞもぞと動くぐらいだった。僕は隣に座った多香美のことを意識ながら今夜起こったことを初めから思い返していた。車が国道246号線を折れて、街路灯の照らさない路地に入るとそれらのすべてが夢の出来事だったかのように思えた。道端で潰れた空き缶やタバコの吸殻、錆びついた商店の看板や剥がれかけの選挙ポスター、結局はこれらの日常と僕は歳をとっていくのだろう。頑張ってもどうしようもないことが頑張ってどうにかなることに比 べてどれだけ多いことか。そんなことをいつまでも考えて、いつまで考え続ければいいのだろうと考えたままに歳をとっていく。明日の現場はどこだっけ? 持ち物は? 道具は何が必要? 来週の予定は? 来月は? 永遠かと思われるほどに長く続いていく日常に僕はうんざりしながら歳をとるのだ。
「お! 見て、八百屋つぶれてセブンになってんじゃん」とヨネが地元の変化に気づいて声を上げたとき、僕は殺してしまうのも一つじゃないかと考えていた。

32 セラピー8回目

 サカエショッピングセンターが潰れた理由は解体屋が建物を取り壊したからだなんて、味の薄いアメリカンジョークみたいなことを言うつもりはないんです。
 サカエショッピングセンターで私はミニ四駆を買って、駄菓子を食べて、スト2をやった。
母は合い挽き肉を買って、玉ねぎを買って、ハンバーグを焼きました。ひろちゃんはおっちゃんの焼き鳥が好物で、4本買って、1本私にくれました。
「この焼き鳥がいちばんうまいよ」
「うまいけど、味塩コショウだけだよ」
 おっちゃんの焼く焼き鳥の煙が立ち上ります。目で追うと数メートル上で暴れるようにしなって消えます。私とひろちゃんは焼き鳥を食べながらおっちゃんと焼き鳥と煙をながめました。
 一年経つと、ミニ四駆が買えなくなりました。
 二年経つと、合い挽き肉が買えなくなりました。
 三年経つと、玉ねぎが買えなくなりました。
 中学生になった私はおっちゃんの焼き鳥を4本買って、4本自分で食べました。
「おっちゃん、長生きしろよ」
「もう店やめんだよ。しまいだ。市川くんも元気でな。お母さんによろしくな」
 おっちゃんの焼く焼き鳥の煙が立ち上ります。目で追うと数メートル上で暴れるようにしなって消え去りました。
 一年経つと、おっちゃんは白髪になりました。
 二年経つと、おっちゃんは車椅子になりました。
 三年経つと、おっちゃんは煙になりました。
 おっちゃんの煙はきっと数メートル上でも暴れずにどこまでも高く空を上ったことと思います。
 話がずれましたけど、サカエショッピングセンターは解体屋の重機が一週間で潰しました。


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