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『鉛色のカエル』4

12 キョウと春子 過去


 「れいくんはタバコでも吸ってて」郊外にあるファストファッションの店舗に着くとキョウにそう言われて僕は外で待つことにした。
お昼少し前だった。静穏に過ぎる冬の日曜日で、一人になると横浜を離れていることに居心地が悪くなってきた。砂に打たれたネバダの岩陰から地平を見つめているツノトカゲや群馬の山間で深い森を見つめているヒキガエルのことなんかが湧いてきて、立っているのが駄目になってきた。


 空間の広がりと木枯らす風が一層キョウと春子の透明度を増していた。冬の夕暮れに向かって館林の空が少し影を寄せると、僕ら三人の口数は減った。公園には方形屋根の休憩場所があって、合成木材のベンチとテーブルにキョウと春子は自転車を寄せて停めた。寒々とした桜の木々で囲まれた園内には休憩場所の他に地元消防団の備蓄倉庫と開店休業のブランコがあるのみだった。それでも遠方に目をやると山の峰は白げてくっきりとしていて、横浜とは異なる景色を作っていた。テーブルの隅に『狂殺連合参上』と彫ってあり、その横に矢印が引かれ『最弱』とマジックかなにかで書かれていた。   ベンチに落ち着くと春子の肌が寒気で乾いているのがよくわかった。
「キョウちゃん、陸上やめてよかったね。ウチはキョウちゃんが羨ましい」
「どしたん? ハコ、急に」と言ったキョウはベンチには座らず、僕と春子には聞こえない音楽で肩を左右にリズムを取っていた。
「ううん。ウチは陸上やめてもピアノがあるっしょ。それに横浜の人とか。なんかいいなぁってなる」
「あーねー。けどあたしもまだわかんない」
「ウチはなんか色々ムリなんさ。ウチは一人っ子だし、お父さんもお母さんも厳しいから、館林好きだけど、いつか世田谷のばあちゃんちに行きたい」
「そっさ。そこなんさ。ハコは東京に親戚がいんべ? それにやることあってさ。あたしはそんなんが羨ましいわ」と言ってキョウはライダースのポケットに手を入れて駄菓子を取り出した。
「キョウちゃんだって東京に逸平兄ちゃんがいるっしょ」
「逸平か、逸平はなーに考えてんか。そんなんよか、ユリとヒラメは? 今どうなん?」
「ユリはキョウちゃん抜けたから選抜らしいよ。ヒラメはハードル一人だから、そのままっしょ。ウチもそこまでは知らんし」
「まじ? ユリ選抜なん? ありえんし。ったくナカムラはなに考えてんだか」
「そうだいね」と言って春子の目が僕を一度見て、すぐに下に向けられた。
「なんかわりいんね。ハコも巻き込んだみたいで」と言いつつキョウは再びポケットに手を入れてタラのすり身の駄菓子をまた一枚取り出し、歯でビニルを割いた。
「全然よ。ウチはキョウちゃんいないと走る気しないから」春子は両手を制服のポケットに入れて振り子人形のように前後に揺れた。「ウチはどうせピアノよ。高校行ってもピアノ。多分、音大行けとか言われんさ」
「音大か。すごいじゃん。春子ちゃん。俺はうらやましいな」と僕が割っても二人は反応がなく、キョウはタラの駄菓子をぶつりと噛みちぎって僕を睨んだ。
「逸平兄ちゃんもライブやってたよね?」と春子が言った。
「ううん。逸平はもう辞めてるみたい。こないだ帰ってきたときお兄ちゃんはアニオタだぞ妹よ、って」
「キョウが音楽詳しいのはさ、そのお兄さんの影響なのかな。春子ちゃんはどう思ってるかわからないけど。バンドやってる俺から見てもキョウは中学生なのにすごい知ってるし。なんか鋭いんだよね、いろいろ」
「キョウちゃんはセンスのかたまりだから。そういうとこたくさん、市川さんは見てあげてください」
 春子の黒い瞳が小刻みに震えていて、僕は胸の縮みを感じた。たまらずキョウを見ると、関せずのご様子で、またも僕と春子には聞こえない音楽を感じながら揺れていた。
「シモキタ行きてーなー。れいくん次ライブいつなん?」
「来月の十日にやるよ。まぁ平日だけどね」
「十日かー」と言ってキョウはケータイを取り出して日取りを確認した。「二月ん十日って、木曜日か。あー」と言いながら、その口がゆっくりと閉じて表情がぐっと締まり、目は動かさずにそのまま親指を忙しくさせていた。
「ウチは平日だと、わかんないな」
「だいじよー。あたしは一人でも。あーでも金さ。金がないかしれん。れいくんお金ちょーだい。っつか、くれ」と言った自分にキョウは笑った。
「それは大丈夫だよ。ゲスト枠っていうのがあって。ライブハウスの受付で名前聞かれるから、キョウの名前言えばタダで入れるようにできるよ。でも一人はダメだよ」と僕が言うとキョウは舌を出してべえとやった。
「ハコがだめだったらヒラメでも誘うか」
「市川さん。下北以外だと、どこでライブやってますか?」と春子。
「下北がほとんどだけど、吉祥寺、高円寺、代々木、新宿、かな」
「ほっほー、超東京。ねえ、逸平から聞いたんだけど、モノプランってバンド知ってる?」と言ったのはキョウで、そのキョウが春子を見ると、彼女は頷いた。
「いや、知らない、かな。いやいや、まじで知らないな」
「なんかさ、逸平曰く、金出しても観る価値があるバンドはモノプランだけらしいんさ。そんでさ、逸平が持ってたそのバンドのCD、二人で聴いたらハコがハマっちゃってさー」
「へー、聴いてみたいな」 
 キョウは立ったまま駄菓子を食べたり、ハミングをしたり、肩を揺らしたりで、春子は前後に体を振り、時々制服のポケットから微かな仕草で飴を取り出して口に放った。
「そいやさ、ハコ、服」と言ってキョウはライダースのジャケットを脱いで、その下に着ていた黒いシャツを脱いだ。
「あっ、ウチも完全に忘れてた」
「はいよ。これね。あたしも赤のシャツ欲しかったんさ。きっしだー」と言って、その黒いシャツの下に着ていた赤いシャツも脱いで嬉々としているキョウを僕は見た。
「まてまてまてまて、お前ら、なんじゃそら。おもっきしパクってんじゃんかよ!」
「なん? れいくん、今頃気づいたん? 本っ当にれいはお人好しというか、バカというか、世間知らずなんだからー」キョウは赤い長袖シャツの作りをあらためて確認するようにシャツを両手で広げて裏と表を交互に見ていた。
「ちょい聞け。いーか、キョウも、春子ちゃんも、駄菓子くらいだったら、俺はまだ許す。いやいや、それも本当はダメだけど。まぁ俺も中坊の時にはやきとりの缶詰とかやってたから。だけど服はやりすぎだべよ。なんつーか、俺もよくわかんねーけど。万引きされると店は困る。そんで、万引きされまくって売り上げが減ったら、従業員の給料を減らしたりクビにしたりして、店は帳尻を合わせる。給料を減らされた従業員が腹いせにどっかで万引きして。ほんでまた店は困って従業員の、みたいなね? こんな感じのスパイラルになるわけよ。わかんべ? そのスパイラルの中にキョウのお父さんとか春子ちゃんのお父さんもいるんだよ? だから、いや、わかんねーけど。そんな感じでダメよ。パク っちゃ」
 キョウは口をとがらせて目を細めて僕を見ていた。春子はしっとりと落ち着いた顔をして僕を見つめていた。寒気で白くなっていた春子の肌に赤みが浮かぶのがよくわかり、僕はしまったと思った。
「怒って、ごめん。だけどね。こういうしみったれたことしてっとさ。なんか夢が遠のくっていうか、上にはあがれねーぞ、みたいなさ」
「市川さんってなんか、なんか」
「けど、金ないんよ」
「小遣いはよ?」
「そんなんくんない」
「キョウのお父さん仕事は?」
「100円ショップのバイト、オカンは電気屋の事務」
「そうなんだ・・・ んじゃバイトするとかさ。あー中学生だから無理か、ごめん」
「あーバイトな。バイトね。バイト。ハコ、ユリ達まだやってるん?」
「知らんけど、こないだジャージが五万だから迷ってんさって言ってた。ありえんし」
「まてまてまてまて、もうまじでやめろ。駄菓子とかそんなシャツくらいだったら俺が買ってやるよ。それもまーどうかと思うけど。盗んだり、変なもん売るよりはましだべ」
「けーどれいくん、横浜っしょー。いつ来るんさ。いつ来れんだよ」おいっ、と詰め寄ってキョウは僕のおでこを軽く叩いた。
「キョウちゃん、市川さんの言うとおりさ、こういうんはもうこれでやめよう?」と言って春子はキョウを見つめた。僕もキョウを見た。
「あーもーいー。わかったわかった。ソウ兄が月一で金くれっから。平気っしょ。もーわかったから」と言ってキョウはライダースのジャケットを再び羽織って、後ろを向いた。
「わかってくれたらそれでいいよ。ほら、武士は喰わねど高楊枝っていうじゃん?」
「『なんじゃそら』」と、振り向いておどけたキョウの顔に、僕と春子の緊張はそれぞれにほぐされた。その僕らを見てキョウも笑った。
「ねーハコー、あれやってー」
「えー、ウチ恥ずかしいな」と言いながら春子は背筋を伸ばすと、テーブルに十指を柔らかく立てた。
 ノクターン第二番変ホ長調、ショパン。
 春子は旋律を喉で奏でながら、そこにはないピアノを弾いた。
弦楽器のように細く、濁りのない清潔な音で、僕のどこまでも届く春子の声。白い蠟燭にも見える春子の指が、這い回る生き物のようになまめかしくて僕は見ていられなくなった。その春子の働く指を僕の横で見ていたキョウが声の旋律に合わせて踊りだした。
 濃い夕焼けが公園一面に影と光の筋を伸ばして、踊るキョウは感光した黒いシルエットになっていた。ときどき夕焼けの光線がキョウの影から漏れて光ったけれど、キョウの表情は見えなかった。シルエットが片足を上げて、止まって、そのまま両手を広げてバランスを崩したかと思うと、ここまで笑い声が聞こえた。
 不器用なバレエはキョウの純真を充分にあらわしていた。水のような春子の旋律は空気の中を洗うように渡って、純潔な心を充分にあらわしていた。僕は館林が好きになった。暮れていく田舎の公園で僕ら三人はそれぞれの秘密を隠して、それぞれに感動していた。
 春子の演奏が止まると、今となっては勢い良く回ることだけに夢中になっているキョウが思い切って跳ねて回った。キョウの服が舞い上がり、ポケットからキャンディーやら酢こんぶやらの駄菓子が飛び散った。拾わないのかよ、と僕は言ったけれど。
「ハコー、見てーゴッチダーンス」と両手を上げて絶頂を迎えたキョウの青春がショパンとアジカンをクロスオーバーさせた。
「わー、ゴッチー、ウチもー」と言って春子も立ち上がりキョウに駆け寄った。僕は満足していたから二人を見ているつもりだったんだけれど、二人の合唱がサビに近づくと、もうかなぐりすてて二人に駆け寄った。
 所詮 突き刺して彷徨って 塗りつぶす君の今日も
 つまりエンド&スタート 積み上げる弱い魔法
 由縁 うしなって彷徨って 垂れながす僕の今日を
 走り出したエンドロール つまらないイメージを 壊せ
「そうさあ!」
 春子を家まで送る帰り道、僕ら三人には心地よい一体感があり、僕はキョウの自転車の後ろに定着していた。
「あの曲はさ、ダフトパンクのデジタルラブって曲があって、多分くるりのワンダーフォーゲルとかにも影響でてるんだけど」「うるさい、理屈っぽい」とキョウ。
 春子は静かに自転車を漕いで、静かに微笑んでいた。
「ショパンぐらいなら、俺もギリギリ知ってるんだよ。別れの曲とか、好きだよ」
「私も好きです」と春子が言ったので、僕は春子の輪郭をもう一度確かめた。
「クラシックは知んない。ヒップホップも知んない。ピアノも知んないし、バンドも知らんわ」とクレッシェンドするキョウ。
 春子の家は築十五年ほどの小綺麗な一戸建てで、カラーベストの屋根とサイディングの外壁がここでは新鮮だった。自転車を降りたキョウと春子はキスでもするのかと疑うくらいに顔を寄せて何かを囁きあって、二人同時に僕を一瞥した後、春子は玄関のドアを開けた。扉の向こうに消える前に僕に何か言うかと期待したけれど、彼女は振り返らずに姿を消した。
「よーし、れーい、漕げー」わざと幼い声で叫ぶみたいに言って、キョウが自転車の後ろに跨った。
「よっしゃ! 真打登場! かっとばしてやる」
「だーめ。ゆっくり。ゆっくり帰るの」と言ってキョウは僕にしがみついた。
 ペダルを右足で踏み込むと思いがけず重くて、僕はキョウの顔が見たくなった。立って漕ぎたかったけれどキョウがくっついていたので、僕は我慢できた。路地には薄闇が張られて更に空気は冷え込み、自転車のタイヤが地面を捻る音が鮮明だった。少し行くと後方からピアノの音が聴こえてきて、僕が驚くとキョウは両手に力を込めた。
 できるならこのまま路地を抜けて山を越えて冬を越えて、横浜も通り過ぎてしまいたいという衝動もあったけど、僕にそれはできなかった。それでもキョウの確かな温度を背中で感じると、月が出る直前の庭先で灯り始めた家々の窓や、外に向かって吐き出される暖かい煙の匂いが美しく感じられて、僕の両手は重くなった。キョウはもうずっと黙ったままだった。

13 銀色のカエル


 モノプランを初めて観た日。開演前の薄暗いフロアに降りてみると、お客の入りは十人に足りるかどうかだった。ドリンクが提供されるバーカウンターの前に高校生くらいの女の子が三人で固まっていたけれど、僕の知らない顔だった。バンドの演奏が始まるまでは会話に支障がない程度のボリュームでBGMがかかっているんだけれど、聴いたことのない日本のミュージシャンの曲がかかっていた。ステージから一番離れたPAと照明のブースの前に楓がいて、背の高い女、いや、楓のせいで随分背が高く見える女性と楓が何か話していた。
 グレーのタートルニット、スリムジーンズに黒いブーツ、そして黒いロングコートの細身の女性がハイネケンを右手に、タバコを左手に、ほとんど楓を覆うような格好で話していた。僕が近づくと上気したその女性はすぐにこちらに目線を向けて、足元から頭まで僕を確認したあと、微かに頭を下げた。
「リハから見てるけど、君はどうなの?」と、唐突に僕を会話に巻き込んだ。
「なんの話?」僕は楓に訊ねた。すると楓は眉を曇らしてその女を見た。
「あんたらみたいなバンドマンは、私らを使い捨てのピックぐらいにしか見てないでしょ?」と言って僕を睨むように窺う彼女の耳には銀色のカエルが揺れていた。
「いや、僕のピックはナイロンなんで、ほとんどずっと換えてないですけど」
 彼女は楓の肩を抱きよせた。
「この娘、芸術学校に通ってるんだって。芸術よー? お金になるの? そんなの」
 彼女は残りのハイネケンを飲み干してぱりっと缶を潰した。
「モノプランなんて、青学出てるのよ。ほーんと普通に働けっての。それでバンドやってますなんて、これ最強だわ」
「モノプランのこと、知ってるんですか?」と僕が聞くと、驚いた、というように目を見開いて顔の前の虫を払うような仕草をとった。
「これだからバンドマンは嫌。君『資本論』読んだことある? ないでしょ? 『純粋理性批判』は? はい知らないね。どうなの、それ。あんたらなんかソクラテスと一緒、金になんないこと続けて最後は自己満して死ぬだけ」
「マルクスもカントも読んだことないですけど、バンドは金にしてる人もいるじゃないですか。それに自己満ってことはないべよ」と、僕が少し語気を強めると楓が不安そうな顔をした。
「母親っていうのはね、家族を支える存在なの。その母親が過去にたゆたって、ふらふらしてたら絶対ダメなの」と言い捨ててバーカウンターの方へ歩いて行った。
「なに? あの人。鬼怒川さん、知ってる人?」
「知りません。モノプランさんのこと知ってるか聞かれて、知ってますって言ったら、ものすごい勢いで絡んできました」
「鬼怒川さんもモノプラン知ってるんだね。やっぱ有名なんだな。俺、ぜんぜん知らないわ」
 楓は慎んだ表情で僕を見ていた。だけど何も返事をしなかった。
「ねぇ、あんた達、付き合ってるの? ステレオドラフトってバンド。知ってる?
私、そのバンドの付き添いで来たのよ。リハが終わったら退屈でさ、ビールべぇ飲んじったいね。ごめんあさーせ」と言って彼女は次のハイネケンを開けた。
「いや、別に大丈夫ですよ」
「はー、もう競馬も最近全然だし、なんか泣きたくなるわ。そんでさ、君はモノプランのこと、どう思ってるん? あれはすごいわ。さすがだわ。しかも青学よ? なんなんそれ・・・ 」
「鬼怒川さん、大丈夫? なんかごめんね」
「いえいえ、大丈夫です。ライブ楽しみです」
 僕は二人を交互に見たあと楓に手を振り、二人から離れた場所で開演を待った。

14 ヒラメ 過去


 フロアではライトが赤色に変わり、夜の中心において再び青にというところ、無数の笑顔や足踏みが空間を揺らしながら、ダンスに踏み切れない肩を静かに誘っていた。そして音、壮大な音、どんなに遠慮がちに表情を沈ませていても、肉体の真芯まで痙攣させるようなバンドサウンドが彼彼女らに恍惚を流し込んだ。偉そうに女の腰に手を回した男は、ステージ上の感動に彼女を奪われまいと必死なシルエット。はたまた轟音に掻き立てられた友情を確かめるように輪になって回るシルエット。ステージからはそれらの表情がはっきりと見えた。いつだって特別なのに、今夜はいっそう特別なのだということをマイクで伝え、最後の曲の頭のコードを鳴らす瞬間、僕だって震えていた。照らされたフロア には今日出演したバンドの顔も見える、いつのまにかステージの前にいる楓も見える、はにかんだ沢山の知らない顔が見える、少女は両目を閉じて耳と全身に意識を集中させて静かに揺れている。見つけた、ついに。
 今、僕は新しい君のためにうたっているんだよ。
 この瞬間を覚えて、この瞬間をいつか思い出そうと僕は思った。やがて年をいくつか過ごしたあとに、この光景が軽薄に映るときが来るのかもしれない。それでも、今見ているキョウの顔だけは捕まえておこうと考えていた。


 楓が胸に両手を当てて大袈裟に今夜の僕らを褒めると、海城が静かに賛同した。キョウはそれを黙って見ていた。そこへジャージ姿の女の子が不意にあらわれてキョウに何かを耳打ちした。ヒラメだ。キョウは僕を一瞥して「うん。いく」とヒラメに告げた。
「それじゃあ市川さん、あたしらけえるから」と言って、キョウは海城に無言で頭を下げると、少しだけ僕の耳に向けて背を伸ばし「きぬがわちゃんとごゆっくりー」と嫌味っぽく付け加えた。その声は楓にも聞こえていたはずだ。
 キョウが背を向けてヒラメと歩き出すと、僕は楓に素早く話しかけた。モノプランのこと、キョウのこと、今日のこと、何を話すべきか聞くべきか、きまり悪く僕が言ったのは「まだ帰らなくて平気なの?」
「あ、ごめんなさい。もうそろそろ帰ります」
「いやいやそうじゃなくて、えっと」と僕は扉を開けて帰ろうとしているキョウの背中を目で追った。
「お友達ですか? あの女の子、私も何度かモノプランさんのライブで見かけたことあります」
 後頭部の辺りでどろりとしたものが分泌される不気味な感覚があった。
「海城くんは、タガワさんと知り合いなの?」
「直接ではなくて、大学の友達をライブに誘ったら、その友達が俺の教え子だって連れてきたのがタガワさんだったんです」と海城は言った。「なんか家に帰らなかったり、万引きで捕まったりで大変で、俺はいつも保護観察みたいなもんだって言ってましたけどね」
「市川さん、送ってあげてください!」
「うん。ごめん。海城くん、ありがとう、また後で」
 夜の下北沢を駆けて駅に向かうまばらな人の背中に青い長袖ポロシャツを探した。
 景色がぼやけて、キョウがどんどん遠ざかる気がした。鳴らしても出ないキョウの電話番号が僕を躓かせた。街灯の明かりや降ろされたシャッターにキョウは溶け込んでしまって、もう二度と会えない、そんな気がして息が詰まった。ところが十分も走り続けると身体の疲労のせいか、不安がたちまち憤りに変わっていった。僕の知らないキョウの顔が、僕の知っているキョウの顔を塗り替えていく。疑心暗鬼になると次第に汗は引いて、海城の才能に対する嫉妬の方が強く湧き上がり、次はモノプランに負けないような一曲を作らなくちゃ、ともう走るのをやめた。
「市川さん、イベントやりましょうよ」と言った楓の顔は期待に満ちていた。楓も東京の人間なのだ。僕にはイベントだのパーティーだの、実はライブですら嘘っぽく聞こえる。「私、市川さんがイベントやるなら、そのフライヤー作りたいです。私は好きなアーティストのジャケットをデザインするのも夢なんです」
「僕らも出ますよ。そのイベント」と言って海城は微笑んだ。
 そうだ、イベントの話の続きをしなくちゃ、それに今夜の精算も済んでいない、メンバーが怒ってるかも、そう思って北口の方から踏切を渡って南口の駅前を過ぎようと歩くと、冬の頭上から駅前広場に怒鳴るような声が打ち下ろされた。
「人生は近くて遠い!」男が叫んだ。「この瞬間に感謝して」寒空の下で頭に派手なタオルを巻いた作務衣姿の男が大声で自作らしい詩を読み上げていた。『あなたの顔を見てインスピレーションで言葉を贈ります』とのことで「ありのままの自分を好きになろう」とか「ありがとうを大切に」とかなんとか贈られてるのはキョウだった。僕は近づいて声を掛けようと思ったけれど、すぐに足を止めた。キョウの表情に満たされた優しさが浮かんでいたからだ。
 キョウは膝を抱えて座り込み、しっとりと落ち着いた顔をして詩を読み上げる男の顔を見つめていた。キョウが周囲の人間と比べて無垢な存在に見えたのは、その詩人のような男が滑稽だからか、と僕は考えた。客であるキョウは目の前に座ってい るのに、なぜ大声を出す必要があるのか、と僕は考えた。「ありのまま」という言葉が三度目に出てきたところで、座り込むキョウの横に立って腕を組んでいたヒラメと僕は目が合った。
『人生は近くて遠い』の朗読が終わると、ヒラメは男から色紙を恭しく受け取るキョウの肩を叩いて、僕を指差した。
「あれ、れいちゃん。なにしてるん?」久しぶりにキョウの声を聞いた気がした。
「そりゃこっちのセリフだよ。全然電話出ないし、探したんだよ」と僕が近づくとキョウは立ち上がって尻を両手で払った。
「もう十時過ぎだよ。早く帰らないと、ご両親心配するよ。ヒラメちゃんだってそうだよ」と僕はヒラメの顔を見た。ヒラメは龍の刺繍入りのジャージを着ていたけど、近くで見るとまだ幼く、中学生なのがよくわかった。
「はい。大丈夫です。親には電話しておきました。キョウちゃんは私がちゃんと連れて帰ります」と、思いがけず礼儀正しいヒラメに僕は驚いた。
「じゃあ、キョウのこと、よろしく頼むね」と言ってキョウを睨むと、キョウは色紙を高く持って左右に揺れていた。
「心付けをお願いします」と、作務衣の男が小さい声で言ったのを僕は無視した。
「心付けって、なんなん?」「金払えって意味だよ」と僕が言うと、不意に    キョウの目が視点を失って舌が半分ほど宙を舐めた。
「心付けをお願いします」と、今度はさっきより少し大きい声で作務衣の男が言ったので僕はぶん殴ってやろうかと思ったけど、拳の代わりに千円札を渡して、キョウとヒラメを駅の改札まで連れて行った。
 キョウとヒラメはケータイで乗り換えを確認しながら切符を買った。その間に僕は駅構内の売店でフルーツガムを買って、帰りに二人で食べろとキョウに差し出すと「なんでガムなんさ? べついらんし」と言って受け取らず、キョウは僕の顔をしばらく睨んだ。
 改札の向こう側でキョウは振り返り、口をつぐんだまま僕に小さく手を振った。ヒラメは模範みたいなお辞儀をして、キョウの手を引っ張っていった。キョウとヒラメの背中がエスカレータに飲み込まれて見えなくなると、途端に胸に突き上げる感覚が迫り、たまらなくなって僕はすぐにキョウにメールを打った。
『今日はありがとう。ごめんね。気をつけて帰るんだよ。着いたらメールしてね。だけどウソはつかないでほしい、まーもーいーけど』
 すぐにキョウから返事が来た。
『あいよー れいは勝手』


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