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私の人生哲学と、「人類の歴史とAIの未来」〜「第三の時代:文字と車輪」編(1/2)

時代背景は変われど、
私たちはごくわずかしか変化していない
それどころか、私は真の変化は人類史の中で
たった3度しか起きなかったと考えている。
どれも技術がもたらした変化だ。
1つの技術ではなく、互いに関連する技術の集まりが、
根本的かつ恒久的に、そして生物学的にさえも、
私たちを変えた。たった3つの大きな変化。
それが全てだ。
そしてこの本は、4つ目の変化についての話だ。


人類の歴史とAIの未来』の表紙の裏の引用。

著者のバイロン・リースは、4つの変化を、

第一の時代:言語と火
第二の時代:農業と都市
第三の時代:文字と車輪
第四の時代:ロボットとAI


と定義している。

第一の時代で、火を使うことを覚え、加熱処理技術を獲得。消化プロセスの一部をアウトソーシングすることで、膨大なエネルギーを吸収し、脳の発達にオールインベットした結果、他の動物の追随を許さない、脳の発達を遂げた。そして、脳の発達で獲得した言語が、更なる好循環をうみ、脳の発達を加速させた。
第二の時代では、農業による人口集中・都市化とともに分業化が進む。誰の労働も増やすことなく、全体の富を増すことができる、たった3つある手段の1つが分業であり、経済用語でいうフリーランチだ。そして分業も、人間相互のアウトソーシングといえる。
私は、データサイエンス講座の講師だけでなく、AIプロジェクトマネージャーや、時にAIの技術調査のディレクターも担っている。「DXDX、これからはDX戦略!オールAI化だ!」をという鶴の一声に始まり、オールAI化のミッションに固執した当然の帰結として、ROI・利益の最適化に失敗している(場合によっては赤字)AI・分析案件の末路を耳にすることがある。AIも目的を達成するための手段の1つにすぎない。ルールベース、人、AI、それぞれに、良し悪しがあるにも関わらず、闇雲にAIにすべて置き換える試みは、最適化と逆行するだろう。フリーランチの一つ、分業化の観点でもナンセンスであり、AIを含めた様々な手段を組み合わせて最適化を図ったほうがビジネスインパクトを生むだろう。オールAI化は、どこか先進的な響きがあり、魅了されてしまうが、フリーランチを使わない道理はないし、フリーランチなくして、現在の進歩は有り得ない。
今回のテーマ、「第三の時代:文字と車輪」では、文字による記憶のアウトソーシングが可能となった。1965年にインテル社の設立者のひとりであるゴードン・ムーアさんが提唱した「半導体チップの"集積密度"は1年半~2年ごとに倍増する」という経験則をムーアの法則という。「シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき」の著者、レイ・カーツワイルさんは、ムーアの法則を拡大解釈させ、近い将来、シンギュラリティ・特異点に到達し「第四の時代:ロボットとAI」が到来すると予期している。
AIの到来の震源地をシンギュラリティとするならば、ムーアの法則に発展する知能爆発の震源地は、文字の技術だ言えるかもしれない。時空を超え、死をも超えて、知の蓄積が可能となったのだ。そして、車輪はフリーランチのもう1つ、「交易」の効能を爆発的に飛躍させた。フリーランチ自体は、不可逆的変化の震源地ではないが、それはまさに人類の変化を加速させるブースター・触媒である。
ユバル・ノア・ハラリさん著の「サピエンス全史」では、人類の不可逆的変化を4つとりあげ、革命、と名付けている。

認知革命(約7万年前
農業革命(約1万年前
科学革命(約500年前
AI革命(NOW〜20??


バイロン・リースさんの切り口と結び付けると、

第一の時代:言語と火≒ 認知革命
第二の時代:農業と都市≒ 農業革命

となる。ここまでは、「人類の歴史とAIのの未来」と同じ展開だ。

一方、バイロン・リースさんが提唱する「第三の時代:文字と車輪」は、約5000年前で、ハラリさんが提唱する「科学革命」は、約500年前である。

リースさんが主張する「文字と車輪」とハラリさんが主張する「科学」、どちらの方が本質的変化を齎したのだろうか?どちらが3番目に相応しいのだろうか?

「第一の時代:言語と火」で想像する力を手にした。「第二の時代:農業と都市」で計画する力・未来を見通す力を手にした。

私もついついやらかしてしまうが、コントロールが難しい事象、預言者でもない限り、起こる前には知りえない事象に対し、過去を振り返って自分で選択した結果を、あーすればよかったこーすればよかったと、悔やんでしまうことがある。第二の時代で獲得した「未来を見通す力」が暴走し、過去を未来と混同してしまう、副作用のようなものかもしれない。コントロール不能な不運な事象に対し、後悔し悔やむ暇があるならば、コントロール可能な事象に対し懸命に取り組み、よりよい未来を紡ぎたいものだ。

ここで、ユバル・ノア・ハラリさん著の「サピエンス全史」を引用する。

自給自足の狩猟採集社会では、そのような長期的計画には自ずと限界があった。矛盾するようだが、そのおかげで狩猟採集民は多くの心配事を免れた。自分にはどうしようもないことを悩んでもしかたがなかったからだ。

インド系カナダ人、ほぼ盲目のコロンビア大学教授、シーナ・アイエンガーさん著の「選択の科学」で言及されている、信仰と精神の安定性の構造に通じるものがある。人間様がコントロールできる事象なんて微々たるものだと信じている者のほうが、無神論者よりも精神が安定する傾向にあるらしい。自分にはどうしようもないことを、くよくよ悩んでもしかたがない精神、アンクルないさ・ケセラセラ・aal iz wellにも通じる、狩猟時代の人類が至った境地・悟りであり、先人の叡智だろう。
1984年に創設された、ニューヨークに拠点を構えるTED(Technology Entertainment Design)という非営利団体がある。毎年大規模な講演会「TEDカンファレンス」を開催しており、ビル・クリントンさんやスティーブ・ジョブズさんといった世界的著名人から、私が頻繁に引用している、ユバル・ノア・ハラリさん、ジャレド・ダイアモンドさん、ニック・ボストロムさんや、一般の人までさまざまな知識人が登壇している。
シーナさんもTEDで講演している。彼女が日本の寿司屋で経験したグリーンティー(緑茶)のくだりは傑作で、腹を抱えて笑ってしまった。

下記がその講演のリンクである。
Sheena Iyengar: 選択術 https://www.ted.com/talks/sheena_iyengar_the_art_of_choosing

忖度という言葉が悪い意味で使われるようになって久しいが、素敵な忖度、日本人らしい、オモテナシ、のストーリーであった。

ポジティブと無反省をはき違えているリーダーが仕切ると、真綿に首絞め・ゆでガエルのような集団と化していく。否定的な意見を害と安直に決めつけ、ネガティブな要素を無視する営みは、不確実性が高いデータサイエンス業界では、致命的なリスクに化ける。実行できない現場・客が悪い、と絵に描いた餅を提案するような業態の出身者が特にそのような傾向が強い。リスクが顕在化しても、ゆめゆめ自分が原因だ気づかず、無反省のまま周りや現場に失敗の原因を見出す。マイナス面を無視し、不運への対策、リスクヘッジを怠るなど、プロフェッショナルの仕事ではない。

反省とネガティブ、無反省とポジティブ、

その境界はどこにあるのだろう。

ここで、何度も泣かされた、私がもっともこよなく愛する詩を引用する。

THE SERENITY PRAYER
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.

Reinhold Niebuhr

ニーバーの祈り
神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳


成熟が可能な領域とそうじゃない領域、その境界は何処にあるというのか。
内省の終着の果てに、背反する境地があり、アンビバレントな境界がある。魂を震わせ神の教示を乞う、生臭くも無垢で切実な祈りである。私にとって生涯ついてまわる、死ぬまで続く生きるモチーフである。

コントロール可能な事象とは?

ニーバーが神頼みするように、コントロール可能と不可能の領域を明確に切り分ける能力を、我々人類は備えていない。逆説的に言えば、できうる範囲で切り分けて生きる以外、我々ができることはない。
ニーバーが「受けいれるだけの冷静さ」を渇望するように、相対的にみてコントロール不能そうな事象を、運命として受け入れるていきたい。そして、相対的にみてコントロール可能そうな領域に絞り精魂を尽くし、失敗すれば内省し次に活かしていきたい。そうすれば、(コントロール不能な、どでかい不運に見舞われなければ)充実した素晴らしい人生になっていくように思う。

ここで、以前投稿した「ギフティッドアダルト⑤〜三大特性のふたつ目『複雑性:質的な異なり』を抑制し使い熟すには?」を引用する。

• When you react with “hot thoughts,” ask yourself three things: (1) “Am I reacting strongly because this experience represents some unfinished emotional business?” (2) “In two or three years, how important will this be?” and (3) “Is this worth such a large allocation of my attention and energy?” Practice thought stopping and thought transfer to manage your mental and energy resources.

激烈な思索であなたが反応した時、3つの事をあなた自身に問いなさい;(1)「この体験は、とある未解決な感情的な問題を再現しているため、私は激しく反応しているのではないか?」(2)「2、3年後、このことは、どれほど重要だろうか?」(3)「このことは、私の注意力と活力を膨大に割くことに、値するのか?」あなたの精神と活力の資源をマネジメントする為に、思索をやめること、と、思索を移動させること、について、修練してください。

万人に当てはまる教訓だと思う。激烈さ・稼働力が尋常じゃなく、インパクトが甚大になりがちなギフティッドは、特段に気をつけて精進してくださいという、度合いの違いがあるに過ぎない。
上記の教訓を、コントロール可能・不可能問題に敷衍させたとする。仮にコントロールできそうな事象だとしても、本当に労力を費やしてまで、はたして反応・行動する意義があるのか。本質的課題と対峙することとなる。私にとって目から鱗であった。事あるごとに立ち返り、自問自答するように心掛けている。

以前投稿した「タイムマシーンはいらない」に書いたが、成熟した魅力ある人物は、相手を意図で、自身を結果で評価する、心意気と器があるように思う。そして、「第二の時代:農業と都市」で獲得した、先を見通す力を存分に発揮しつつも、計画に踊らされることなく、人知を超えた運命を受け入れ、不運を笑い飛ばし、今この瞬間をも嗜む、狩猟時代の器も兼ね備えているように思う。
香港人、アメリカ人と交際したこともある私は、異文化コミュニケーションが、外れ値レベルで得意だと自負している。なぜ得意かといえば、決して褒められた理由ではない。日本に生まれ育ちつつも、大抵の周りの人たちは、僕にとって異文化圏の住人であり、先天的マイノリティだったのだ。異文化交流に慣れているのだ。典型的な日本人と比べ、異文化交流に慣れている外国人は多いし、日本人ではない彼らは私を異文化出身として扱ってくれる分、同調圧力・暗黙の期待値が低くなりがちで、やり易いという側面もおまけつきだった。
理解できない存在・異物を排斥するのは、社会的動物として真っ当な営みだとも思う。時おりそんな排斥を被る私だが、精神のプロにも断言された、コントロール不能な排斥という不運の方が、私にとってはコロナよりも辛い現実だ。生き辛さの総体は、コロナ禍でもさして変わっていない。
私自身、定期的に排斥を受ける事象を、生きる前提として、人生設計を建てている。いつでも転職出来る力を身つけること、それが、私にとって排斥への処方箋である。
時おり成熟した魅力的な人物の真逆を突き進む人災に襲われる。嵐のないところに嵐を呼び、ヒステリックに自ら起こした不幸という嵐を、周りのせいだと当たり散らして、悲劇のヒロイン化する。どんなに最善を尽くしても、コントロールできない事象に起因した不運は避けられない定めにあるが、自ら不幸に突き進む者は、必ず、不幸に、陥る、定め、にある。
健全な関係を、相互依存、不健全な関係を、共依存という。絡まり合って一緒に仲良く不幸に転がり落ちていくのが共依存とすると、相互依存は、フリーランチの一つ、分業、と同類であり、お互いの良さを生かし合い、欠点を補い合い、幸せのパイ・総面積を増やす営みである。「フリーランチ」は「分業」「交易」「技術の進歩」の3つで構成され、誰の労働も増やすことなく、全体の富を増すことができる唯一の手段である。
悲劇のヒロインと共依存を、メタレベルで鳥瞰し抽象化してみる。自らを不幸にし、周りをも不幸にする、不幸の総体を増やす行為、といったところか。何よりまず、その構図に気付かない限り、不幸の連鎖・袋小路から抜け出せないだろう。

今もこよなく尊敬している、インドネシア人のダニエルや、昔付き合っていた香港の女性が、静かなる断固たる決意で、突き進まなかった、不幸の総体へ突き進む方角である。(ダニエルの逸話に興味ある方は、以前投稿した「全然連絡とってないけど、一つ年下、インドネシア人、尊敬するダニエルとの出会い@タスマニア プロローグ」をお読みください)

この方角は、そもそも、幸せに向かうのか、それとも、不幸に向かうのか?人類として、少しでも、幸せの総体を増やす方角なのか、それとも、不幸の総体を増やす方角なのか。感受性、直感、情理、経験則を総動員し、可能な限り、健全な舵取りができるよう、心掛けていきたいと思っている。
ハラリさんによると、科学と資本主義は、切ろうにも切り離せない、蜜月関係らしい。不本意にも、前々職でネズミこう・ネットワークビジネスにはまった後輩から、美女を連れた勧誘を受けたことがある。美女に説明を受けたのでそれはそれでありがたい時間だった。何にも響いてない私のリアクションに、

「えーと、ネットワークビジネスのこと、ご存知ですよね?」

と、美女を困惑させたのは一興だった。

「わざわざごく一部のみが総取りでボロ儲けで、大多数がジリ貧のビジネスをする気はない。家族を養えない、くらい追い詰められた状況なら、やるけど、ね」

と、美女と別れ、後輩に告げると、

「みんなやってるんです。それがビジネス、資本主義なんです!」

という返事がきた。後輩のような輩は、ネットワークビジネスのカモ確定なのだが、悪魔がヒトの弱みに取り入るように、ヒトの貪欲さに取り入り、極々一部の勝ち組が、甘い蜜を吸っているのである。
かつての帝国で、ごく一部の王族と貴族が、大多数の賎民から搾取し、富を独占するのと同じ構造、不幸の総体が増える営みに加担する気はない。「第一の時代:言語と火」よりも、「第二の時代:農業と都市」の方が、不幸の総体が大きいという仮説も、まさに、一部のエリートが大多数を搾取した構図を論拠としている。リースさんは、「第三の時代:文字と車輪」の終焉を迎える現代の方が、第一の時代、狩猟時代よりも幸せだと主張している。ネズミこうのようなビジネスは、帝国時代へ逆行する方角に、王族を夢見て突進するものの、99.9?%くらいが搾取される賎民と化すのが構造上の宿命である。自ら喜んで突き進む分、帝国時代の賎民と違い、哀れむ余地は薄い。大局的にみると、折角積み上げてきた幸せの総体が、帝国時代へと逆行される愚行に違いない。

銃・病原菌・鉄」の著者、ジャレド・ダイアモンドさん、ユバル・ノア・ハラリさんとも、「第一の時代:言語と火」のほうが、「第二の時代:農業と都市」よりも、幸せの総体は大きかったと主張している。さらには、「第三の時代:文字と車輪」と「科学革命」の終わり・終焉を迎えようとしている、現代と比較し、身体能力だけでなく、知能(記憶力)も、「第一の時代:言語と火」・狩猟時代の人類の方が高かったとも、主張している。「国家」の著者プラトンが文字は人の記憶力を弱体化させると主張したように、記憶のアウトソーシングは、そういう副作用もあるのだろう。Google検索時代は、なおのこと、記憶の弱体化を加速させている。
短期記憶で同時に記憶できる平均は、マジックナンバーセブンといわれる、7、と言われている。そう、短期記憶の組み合わせには、情けないほどの制約があるのである。
長期記憶の組み合わせでしか行き着けない領域の、発想・アイディアを駆逐していくのが、Google検索時代の弊害だと直覚している。

村上春樹さんが、知能の総体・総量は、いつの時代も不変であると語ったことに対して、内田樹さんが賛同していた。ユバル・ノア・ハラリさんも、「サピエンス全史」で、7万年前の認知革命から人類が賢くなった証拠は一つもないと語っている。

知能の総体・総量は不変だとする。文字に加え、Google検索で更なる長期記憶のアウトソーシングに成功した人類は、これから何処に、節約した知能を活用していくのだろうか。


続く

私の人生哲学と、「人類の歴史とAIの未来」〜「第三の時代:文字と車輪」編(2/2)

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