小さな絶望がぼくをやさしくさせる
やさしくなりたいと思えば思うほど、自分のやさしくない部分を見つめなければならない場面がたくさんやってくる気がする。
友達の相談に乗っているときに、相手に対してぼくは答えみたいなものを提示してしまうことがよくある。「個人的にはそれはこうした方がいいと思うよ」って口をついて出てしまう。相手が答えを求めてないことだってあるのに。そんなときに「あぁ、やってしまった」と落ち込む。
Twitterやブログで、自分にはない視点で物事を考えられる人を見ると、「どうしてそこまで相手のことが想像できるのだろう」「自分と違って、なんてやさしい人なのだろう」とつい比較して、落ち込む。それに羨ましがり、次第に妬み、うとましくさえ思ってしまうこともある。
そしてそんな自分に対して、「あぁ、なんてちっぽけな人間なんだ」とさらに落ち込む。やさしくなりたいという気持ちが強ければ強いほど、効果は抜群だ。HPゲージは赤色。瀕死の状態。
予想以上にダメージを食らうのは、エゴがあるからなのかもしれない。やさしくなりたいという気持ちの裏に「やさしい人だと思われたい、いい人だと思われたい、できた人だと思われたい」と隠れられないぐらい大きな承認欲求が隠れている。「くそっ、自分が認めてもらうはずだったのに」とこぶしをにぎりしめながら隠れている。
クソくらえ。自分に向かって吐き捨てる。これもやさしくない証拠かな。
こういう自分と向き合うのはしんどい。やさしくなりたいと思っているのに、それとは真逆に進んでいるように感じてしまうから。
人から「やさしいですね」って言われても、否定してしまうことも多々ある。「自分のはエゴなんです…」と相手の気持ちも考えずに決めつけてしまう。そしてまた、決めつけてしまったと落ち込む。根暗に思えますよね。そう、ぼくは根暗です。
どうしたらもっとやさしくなれるだろう?と散歩をしながら考えていたら、昔読んだあるメルマガに書かれていた言葉を思い出した。
「絶望しろ」
あぁ、そっか、絶望すればいいのか。
ぼくはやさしくなりたいと思いつつ、やさしくない自分に絶望している。承認欲求から人を妬んでしまう自分に絶望している。根暗な自分に絶望している。でもその絶望があったからこそ、少しずつやさしくなれているのかもしれない。「どうしたらもっとやさしくなれるだろう?」そう考えるきっかけがぼくにとっては絶望なのかもしれない。
だからって、HPゲージが0になってはダメだ。人生はゲームオーバーしたら、二度とコンテニューはできないから。ときに回復するために休むことだって必要だとは思う。自分にもやさしくなる瞬間は必要なのだ。
でもHPがまだあるうちは、ぼくの絶望なんかより大きく絶望している人にやさしくしたい。いや、小さな絶望している人にもやさしくしたい。同じぐらいの絶望をしている人にもやさしくしたい。
そうやって人にやさしくしようとして、それでも想像が足りなくて、また絶望して、瀕死の状態になって、すこし回復して。また再び誰かにやさしくしようとする。それを何回も何回も繰り返す。それでやっと、ぼくはほんのちょっぴりやさしくなれるのかもしれない。
絶望する自分が絶望している誰かの希望になれるように、もっと絶望しよう。
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