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がんばっている人が報われる、はちょっと辛い。

「がんばっている人が報われる組織がいい」

かつて勤めていた会社で、ひとりのメンバーが話していたことだ。当時は、ぼくも同感だった。がんばって成果を出した人が報われる。高いポジションに就けたり、報酬が高くなったり。そういう仕組みがあるのが良い組織なんだと。

会社だけではなく、ぼくが通っていた学校でも「がんばっている人が報われる」という価値観は通念だった。勉強や部活で何か成果を出したいならば、がんばりなさいと。思うような成果が出ないのなら、それはがんばりが足りないのだと。そう教わってきた。

だからぼくは、ずっとがんばりが足りないと思って生きてきた。学校の勉強でも、部活でも、それに会社でも自分が理想とする成果をあげられずにいたからだ。いまはフリーランスのライターとして働いているが、やはりまだままだがんばりが足りないのだと痛感させられることが何度もある。

ただ「がんばっている人が報われる」という言葉に出合うといつも、「がんばっているとは何か」と疑問が浮かぶ。がんばっているという言葉はいくらでも解釈のしようがあり、人によって捉え方が全然違う。誰かにとってのがんばりは、誰かにとってのがんばりではないことが往々にしてある。

だから「がんばっている人が報われる」というのは、「誰かから見て、がんばっている人だけが報われる」ことなのではないだろうか。もしくは「何かの基準に合わせてがんばっている人だけが報われる」ことでもあると思う。ある人から見た場合やある規範に当てはめた場合にがんばっているかどうかが重要で、自分ががんばっているかどうかは関係ない。自分の中でいくらがんばろうが、そんなものは無視される。あたかも自分はがんばっていないかのように、他の「がんばっている」を押し付けられてしまう。そんな状況はちょっとつらい。

こんなことを考えていたゴールデンウィーク最終日。明日から、たとえ他人や社会に認められないとしても、せめて自分だけは自分のがんばりを認めてあげたいと思うのだ。

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