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自業自得な自分の許し方を悪いと思いつつ探らせてもらう15分

自業自得なことってある。

誰のせいでもないと慰めてもらえるような類のものから、そりゃお前さんが撒いて育てて花まで咲かせたんだろうよってどうしようのないものまで。

みんな大好き太宰治だって恥の多い人生を送ってきたのだから好奇心ばかりのあんぽんたんは人生を半分も生きないうちから反省すべきことや一生かけて償っても足りないくらいの恥をもう既に手に入れている。

というか何も成し遂げていないのに生きてきて残ったのは恥くらいだと言ってもいい。

ふとしたきっかけで大切な友人を失ったり、受験に失敗したり、不倫愛に目覚めたり、就職難に入社した会社をすぐ辞めたり、旦那選びに失敗したり...

そんな人様に迷惑をかけてきた人間がこの先どう生きていくのか。

もう生きていられない。と逃げてしまうのも無責任だし、誰かに相談して甘やかしてもらうのも罪の償い方としてどうなのだ。開き直って忘れてしまうのはもちろん違うしそんな大物であれば今まで恥以外の何らかの形で社会に役立っていそうなものだ。

そんな風に考えていると、被害者と呼べる人たちに許してもらえるまで自己を否定して生きていくのも何だか烏滸がましいような気がしてきた。貴方様に許してもらえるよう今後は世のため人のため笑わずおごらすなるべく不幸に生きていきたい。

しかし、そんな他人に依存した生き方も烏滸がましいというかかえって迷惑。逆の立場になってみても確かに何度あってもヘコヘコと謝ってくる人間は嫌だ。ニコニコしていても、生き生きしていても気にさわる。

となると間違ってはいるのだろうが、自業自得な自分は結局自分自身が許せるように生きるしかない気がする。甘やかせるのも許せるのも自分しかいない。むしろこのご迷惑をかけさせて頂いた経験を忘れず人のために生き自分が好きになれる程の人になり被害者の方に敬意を持っていた方がいい。それが私にとって一番厳しい道だ。

中学の頃剣道部に所属していた。顧問の通称ゴリラは地元では有名な熱血漢で耳たぶは腫れ上がっていたし、突きを喰らうと武道場を飛び出して体育館を通り過ぎ外の壁にまでぶち当たったという逸話まで持つ人物だ。そんな顧問は大事な試合前に怪我をして見学する私に「迷ったらいつも自分が辛いと思う方を選べ。今はお前にとって休む方が酷だろう。だからしっかり休むんだ。」といった。

この話に私は妙に納得して選択を迫られた時は一つの指針にしている。だからこそ好奇心旺盛が災いして小さな過ちが思い切った大きな過ちになることもあるのだが。

話が少しそれたが、自業自得に悩む自分にとって最も気楽なのは相手がいてその相手が甘やかしてくれる事だ。「もういいよ、貴方の気持ちは分かったしもう忘れて水に流そうよ。」と。しかし世の中そんな絵本のような事は少ない。多くの場合許されないし、相手が気にして怒っていてくれるならまだいい方で「そういう事ならそのようにしてこの件はお開き!」と気持ちが処理されないまま終わる事も多い。被害者も忙しいのだ。だからと言って加害者は忘れてはいけない。きにして生きてもいけない。ならばどうするか。

自分の血肉にして立派に生きてゆくしかない。
と私は思う。

血肉と打った時恥肉と変換されそうになった。変換機能は私より先に答えに辿り着いていたのか。

加害者としてこの経験を忘れないように、人一倍努力してたくましく生きていく。甘やかしてくれる他人はもういない。だからこそお前は前に進むしかないのだと自分自身で慰めていくしかない。許し赦されるのは対等な関係だ。恥の多い私は赦されるのすら恥ずかしい。

であるならば、貴方のことを忘れずお叱りをお気持ちを一つの指針として私の中に掲げさせて頂いて進んで行くしか道がない。
勘違いなさらないで頂きたいが
これは立派になれば許されるなどという
そんな甘い話ではない。
止まる事も休む事も憩うことも許されないのだというお話です。

自業自得な私は
自分で自分を許して励まして
勝手に前に進むしかないのだ。



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