個人的な麻薬への気持ち
私の今年一番スキを戴いた記事、というnoteからの報告であがってきたのはこれなんだけど
麻薬のアメリカ社会への浸透性はもう、どうしてとかなんで、とか言っても仕方ないのか、と絶望的に感じるところもある。で、そういえば、と思いだしたことがあります。
アメリカに住んで長くなってきたソルトレイクシティなのだが、最初に私達が借りたのはデュプレックスとよばれる「家2件がひとつの建物の中にある」家だった。斜面に立っていたその家は、大家さんの姪が下の階の(そして庭にアクセスできる)家に、そして私達は上の階の1フロアに2ベッドルームがある家で、庭側に開けた視界の先はエリアの大きな公園というなかなかな借景つきだった。マンハッタンの高層アパートは便利だったけれど東京とあまり変わらないと感じていたので、溢れるほどの緑が毎日みられるこの家は 実際とても気に入った。
引っ越した頃に2人目の妊娠が分かって、私は基本的に家の中の生活となった。言葉はNYよりずっと聞きやすいエリアで外に買い物にいくのも楽しかったけれど、少しずついろんなことが出来るようになっていた娘とゆっくり過ごせるのは本当に有り難かった。車一台で暮らしていたので、買い物や用事がある日は私がオットの送り迎えをし、用事のないときはオットが車を持っていく、という生活。
地域で仲良くして頂いた日本人のご家族も遊びにきてくれたり、日本にはない「不便さ」と付き合う術を教えてもらったりして、徐々に生活に慣れながら二人目の子供の準備をしたり、というのも結構楽しかった。
引っ越して8か月ほど経ったある日のこと、買い物に出かけようと娘を車のカーシートに乗せてガレージドアを開けたとき・・・ 目の前のドライブウェイに見知らぬ車が駐車していた。しかも【ドライブウェイを完全に塞ぐように斜めに】停めている。これでは車が出せない。そのままではどう考えてもその車かガレージにぶつかってしまう。
「あの、すみません。車を出したいので少しだけ、あなたの車を動かして貰えませんか?」
運転席に座っている若い人に声をかけた。が、こちらを見ない。
「ほんの3〜4フィート(1mくらい)くらい前に動かして頂ければ良いんですが」
ちょっと不審に思いながら再度声をかけると、その男性はゆっくりこちらをみた。不自然にゆっくりと。怖い、と思った。はっきりとは分からなかったが、普通ではない。
「車が動かないんだ」
「は???」
エンジン音はしている。あれは?これは?と聞いても答えが的を得ず、そのうち男性は車を降りた。
「動かせないんだ」
「えっと、じゃ、私が代わりに動かしてみてもいいですか?」
男性はただ頷き、私が代わりに運転席に乗った。動くじゃないか。私は3フィートよりすこし多めに車を動かしてから車を降りた。
「ありがとう、車は問題無いみたいですよ」
と男性に声をかけた、つもりだった。彼はそこにいない。あれ?
キョロキョロっとした私のよこを、娘が乗っている「うちの車」が出て通り過ぎた。そしてドライブウェイを出て行く。さっきの男性が運転している。
自分がなにを叫んで追いかけたのか、英語だったのか日本語だったのか、全く覚えていない。
娘を連れて行かないで!何をするの、止まって!
叫びながら車道に飛び出し追いかけながら、同時に「これでは追いつけない」とわかってもいた。絶望的な恐怖に襲われたとき、後ろから知らない車がすごい勢いでうちの車を追い越し回り込み、車体をつかって通せんぼのカタチをとった。幸い彼は車を停止させ、私は立っていられず車道にしゃがみ込んだ。
とにかく娘を、うちの車を家に戻そうとしたけれど、足がもつれるばかりだった。追い抜いていった車の助手席から年配の女性が降りてきて、私の肩を抱いて連れて家に戻ろうとしてくれた。私の夫が車はガレージに戻しますから、と言ってくれたと思う。「娘が中に」とやっと言えた私のことばに、女性が走って娘を迎えに行き 娘を抱いて戻ってくれた。
結局そのご夫婦が警察に連絡をしてくれた、多分。いや、私に警察に電話する?と聞いてくれたのかもしれない。よく覚えていない。私は「気が動転していて英語が出てこない」、と言った気がする。
とにかく、と女性に勧められて家の中に戻り、女性がしばらく私についていてくれた。娘はただただきょとん、としていた。無事でよかった。
車を横付けして彼を止めてくれたひとが多分 ウチの車もガレージに戻してくれた。ウチの車を運転していった男性は、ふらふら出てくると歩いてどこかに行ってしまったらしい。警察がきて、私に簡単な聴取をする。一通り話をすると、その後そのご夫婦が状況を説明してくれた。ここで初めて、私達を助けてくれたのが「話をしたこともないお隣さん」だと知った。
私達が出かけようとして ふと見ると隣の奥さん(私)がガレージから車を出せないようで、変な駐車の仕方をしている運転手と話をしている。やがて車から降りてきたその運転手がそこの大家の息子だとわかったからちょっと見ていた(もともと、ドラッグを使っていると知られていた息子だったらしい)。隣の奥さん(私)が彼の車を動かしている間に その息子はガレージに入り、そして彼女(くどいけど私)の車を運転してふらふら出てきた。彼女はお腹も大きいし、とにかく止めなければ、と、自分の車を前に停めることにした。・・・と、そんな話だった。
その話を聞きながら初めて涙が出てきた。怖かったと思っていたと理解した。そうか、あれが「ラリってる」状況か。あ、オットに連絡しなきゃ。ここで初めて思い至り、ポケベルを鳴らす。即、折り返しがきて(私が彼のポケベルを鳴らすのはほぼ皆無なので、慌てたらしい)簡単に事の顛末を話す。
警察官は その男性を今探していること、見つかったらこの家の3マイル以内に立ち入れないような勧告ができることを言っていたと思う。
オットは早退して(多分タクシーで)戻って来て、ちょうどそこに警察から電話が来て報告をうけた。大家の息子を保護したけれど、薬の作用でまだ話ができていないと。麻薬をつかっていることは明らかでその件はこちらで対処するが、話したように今後その家には近寄らない命令を出します、とのことだった。
さすがの私も(大抵のことはむしろ落ち着いて動けるのは私なんだが、この時はダメだった)結構ダメージ大きかったらしく、その後結構すぐ、予定日より3週間ほど早く息子が産まれてきた。
退院して家に戻ると大きな花束が届けられていた。お隣のご夫婦からだった。どうしてか分からないけど、息子が産まれたことを知ったらしい。
そして息子が生まれて2ヵ月くらいで私達は別のところへ引っ越した。引っ越す直前、お隣のドアを 引っ越してきて初めて叩いた。
「助けてくれて、そして先日はお花までありがとう。あのとき助けて頂いた娘と、その後生まれた息子がこの子です」と、お礼と報告のために。そして引っ越すことも伝えた。Good luck、最後にハグをしてくれながらご夫婦が私達に言ってくれた。
私達は次に引っ越した先で2年ほど暮らしたのち、一度ビザのルールのために日本に帰った。
ご縁でまたこの地に戻れることになったけれど その後 その助けてくださったご夫婦にはお会いしていない。何度かその家の近くを通る度に考えはするのだが、そのままどんどん時間が過ぎてしまった。
すっかり忘れていたが、そういえばイキナリの麻薬がらみの騒ぎだった。
そんなわけで、この地で最初に借りた家では ある意味アメリカ社会の闇をいきなり突きつけられたが、同時に「ご近所の目」の温かさも知った。何事もなかったこともラッキーだったけれど、多くのひとのご厚意に触れることが出来たのが一番の収穫かな。(おかげで、麻薬のことに対しての記憶がほとんど消えているのがすごい)
もしかしたら、先述の記事を書いたときの自分のなかの怒りの発端は、こっそりこの時期にできたものだったのかもしれない。