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釣らないまでも、潜る手がかりを置きたい。

書くこと、を考えている。
なぜ書くのか。
どこに書くのか。
そうすると「届くもの」「届かないもの」がそれぞれの場所であることがうっすら見えてくる。

Brilliant Blueという、書いたものにコメントをお願い出来る(とか語弊ありそうな書き方してごめんなさい、嶋津さん)場所がある。

先日その第3回放送があって、まあこの回は「対談」形式にはできなかった参加希望者の作品に嶋津さん、仲さん、池松さんという「他人の文章を読んできた」3人がコメントくれる回だったのだけど。

ここで池松さんが私の「相談したかったこと」のひとつ、「読み手を引きずり込むようなフックを仕掛けたい」に対してすごいことを指摘されてきた。

あ、池松さんのコメントで仰ってたのは「紙媒体のとき書き手と読み手の間が離れていて、だから必要だったフック」それと、「ソーシャルネイティブな人達、読み手であり書き手であるひとたちが対象のときのフック」があるでしょう、ってこと。「たなかさんのの質問は紙〜FBあたりの感覚でのフックかな?」という再定義のための問いかけ。

で、私が尋ねていた「フック」は「どういうこと」かを再定義しましょうよ、そのうえで浮上した解決策のなかで「やりたいこと」が選べたら、私の質問の答じゃないですか?という、ね。(すごいよね、池松さん)

私の知りたかったこと。【フック=読んでいるヒトの心に「もう一歩進んでみようかな」の場所に引っ張ってくるもの】として、SNSやCNSを使うひとたち『が』読み流せないもの、ざらっとした質感を「短文」にどう置いてくるかということ。


だって、紙媒体は隠されたフックを「覚悟して読んで」くれるから、ちゃんと追いかけていけるもの(ヘンゼルとグレーテルが追いかけちゃったようなお菓子みたいなもの)を読者が見つけていってくれる。最初からフックを探しに来るつもりで潜ってくれるひとが多いのではないかな。

それに対して、SNS/CNSは実は大半のひとが最初の40語くらいで読むのを諦めるという研究結果がある。だからこその巷で言われる「釣り文句」なんだけど。

釣り文句はいれたくない。
だけど フックは仕込みたい。
いやらしくなく、「説明書き」にならず、煽ることなく。

 

加えて、SNS、CNS、コラム、紙媒体・・・これらは順に読んで貰える文章量が変わる。読みたくないひとが左側へ、読みたい人が右へ。。。一般的にはそう言われている。(そして確かに、短いものを好む人は長いと分かった時点で読むのを止めるのに躊躇いが無いようだ。先ほどの40語ってのがそのへんらしい。)

これまでは読む人の傾向で 自分の作品が合う場所 が決まってきていたと思う。数的なものをみているとそうだろうと思うし、肌感覚でも間違いはなさそうだ。


だけど、・・・もしかしたら違うのかもしれない。もっと「読み手」を信じたら、読み手は深いところまで一緒に潜ってくれるのではないか。短文のなかに興味をもてない人達に 少しずつ「ざらつき」を感じて欲しいのだ、そしてそれが私がここでお三方に聞きたかった「フック」だ。(池松さん、少し届きますでしょうか?)


【読み手を信じる】私達は口ではそう言っていても、大きな諦め先行で書いていないか。分かってくれない人が多いだろうとか。あんな人達ダメだとか。

で、池松さんの指摘をうけて考えた。私の質問の意図は2つある。


CNS(コンテンツネットワークシステム)は フックの仕込み方次第で 長編へも読み手を引っ張ってくることが出来る。この応募した作品がそうだけれど、早めにフックになるところを置いていかないと「読むのを止めてしまう」。でも気をつけないと「説明だらけ」になる。これをできるだけ描写で自然に埋め込みたい。これが最初の質問意図。(もし可能なら、どの当たりまでで最初のざらつき感があると読み進められるか、も知りたいけど、これはデータが必要ですね)


またSNS(端的にはTwitter)はどうしても釣り文句、煽り文句になると言われるけど、そうだろうか?上手に「フック」を置けたらもう一歩、深いところへ思考を向けてくれる読み手もいると信じてもいいのではないか?

フックの仕込み方が言語化出来ていないから、読み手は浅瀬を覗き込み、そこで読む事をやめているんじゃないだろうか?フックの仕込み方がわかれば、それを辿って読み手はちゃんと潜れるのではないか?

《ツイッターは短絡的に物事を捉えて好き勝手言うひとばかりだ》

いや、もしかしたらそういう状況を、私達が作っているのではないか?

(ああ、ごく一部の、読みもしないで好き勝手言うひとたちは置いといて。これらの人の中にも正しいフックの置き方があれば読み手に育つ可能性もあるけど、最初から理解しようなんて思ってない、スキなように理解したいひとを変える事はできないのも事実)


だとしたら、書き手が短文の中に心がけるフックとは何だ。釣り餌でも煽りでもなく、一緒に潜ってみようよ、と、強制でなく怖がらせず手を差し伸べるって、なんだ。これが二つ目の質問。

話は少し逸れる。

先日から池松さんの情報発信学を読んでる。入り口の講座も出てみた。靄のようななにかがますます濃くなった。

いや、それって悪い事じゃナイって知ってる。靄は濃くなれば「かたち」を成してくるんだ。ただ時間と刺激が必要なだけ。(この情報発信学〜シリーズ、現在第5部まで出ています)

「誰かに何かをつたえたい」という明らかな目標が私にはない。池松さんにはもうばれてて、「方向性考えるのが一番難しそうなのはたなかさん」と言われて苦笑いした。いやーーーそうなんですよねーーーーー。

でも書きたい。なぜか。

世界が美しいモノに溢れているからだ。興味深いものに溢れているからだ。もの凄く悲しい事、酷いこと、残酷なこと、そういう沼の中にすっと立ち上がる、小さな輝く宝石を載せた誘導灯みたいなものが散在している、そんなことが世界の本質に見えるからだ。

伝えたいんじゃない、ただ著したいって思うだけだ。
誰かにとっての価値は私にはわからないんだもの。

そして残酷な事実だけれど、
世界の美しさを著すのはそれと対比になるものがあることを否定していてはできない。でもその対比となるものは出来たら、ええ、出来たら口にもしたくない。なかったことにしておきたい。

でも平穏のなかに幸せや美はみつけにくいんだ。確実にあるけど、表現しづらい。他人を全員、完璧に納得させることはほぼ不可能だ。


私がやりたいことは書くことだ。この世界を書くことだ。
でも脳内お花畑の世界のまま書いても 綺麗事だけ書き連ねても そんなのはどこにも届かない落書きだ。

だから本来嫌悪する世界も言葉にできなきゃいけないと思っている。
だから嫌悪とか嫉妬とか呪いたい気持ちとか、そういうのを書きたかった。先日のブリリアントブルーに応募した作品はそんな習作だった(まだ青くて、説明いれるという諦めの暴挙にでたところが情けない)。

まだ答は出てないけれど、前出のブリリアントブルーの3人のうちのおひとり、嶋津亮太さんがここに書かれたことこそ、私も上記のように悩みながら思い至った場所。その可能性を、言葉にしたいし実際にやってみることが出来たらと思っている。

「noteは趣味の場所、プロフェッショナルの書き手とは違う」というニュアンスの言葉とよく出会います。でも、最近になって僕はその点に疑問を抱くようになりました。この「やさしい街」はただのぬるま湯ではありません。

で、以上が2953文字。長かったですか?

最後まで読んでくださった方を引っ張ったのはなんだろう。
私の飛び石を渡るような思考について来られたのだとしたら、なにがそうさせたのだろう。

SNS、CNSで「読まれる長さ」というものがやはりある。そこを乗り越えさせたい、と今の私は思っている。SNSなら添付リンクをちゃんと読んでみようと思わせる何か=フック。CNSなら「ちょっと長くてもその先を読んでみたい」と思わせるざらつき感=フック。

そういうところを考えるのも、「フック」のあるべき姿を探る一手なのかもしれない。


サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。