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私にとっての「書くこと」は

ヴィヴィアン・マイヤーというアマチュア写真家がいた。

ああ、ご存知ない方が殆どだと思う。実はこの方は近年、本当に偶然に作品が見つかって人々の注目を集めた人だからだ。生きていたときの彼女を知る人は 彼女の作品をそれほど知らない。いや、もしかしたら彼女が生きている、ということを知っていた人が殆どいないのかもしれない。

・・・とまで書いて、リンクを貼ろうとしたら2020年10月半ば〜11月末にビビアンの個展が日本であったんですね。(書きながらそういう事を発見する辺り、私はシロウトだなぁと思う)

彼女の写真集が食卓横に置いてある。時々その大きな本をぱらりとめくる。
切り取られているものを私の感想として言えば、日常であり切なくなるくらい一生懸命生きていた人達の記憶であり人間の手触りである。

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その視点にぎょっとすることがある。写っているのはたった一人とか、数人とかなのに、もの凄い存在感を放つ。このページのものなんて、見た瞬間は怖さを覚え、そのまま見続けていたらそのコミュニティで働く人、この箱の中身を入れたひと、それを出して使った人、工場?からこの箱を運んできてはここに積んでいった人の息遣いや時々聞こえる雑談、タバコの臭いがしてきそうだった。

私達は短い期間だがニューヨークシティに、それもかなり中心に近いところに住んでいた。あのとき、少し歩いた「裏通り」にこの写真にあるような空気はまだちらほらと残っていた。
確かにこの写真たちの空気があったことを理解する、存在の気配というか。写真一枚が、殆ど思い出すことのない私の記憶に釣り糸を垂らしてゆっくり引き上げる。

ドキュメンタリー映画に出てくる彼女を知る人達は、彼女が結構な変人であったと証言する(よいベビーシッターだった、と言う人もいるが)。

でも、まぁ彼女に「生きているうちに自分の写真を出したかった」という本音があったとしても、彼女の作品は彼女に富を与えなかったかも知れないが後世の多くの人の心に届いている、ということを「実感として」私は理解する。

私は成果主義には諸手を挙げて賛成できないが、でも同時に成果を出していくひとを心から尊敬する。時代を超える芸術を生み出すひとを羨ましいとも思う。ヴィヴィアンに私のこの言葉は届かないどころか「その頃に同じお金をおとしてよ!」って怒られるかもしれないが。

日の目を見なかったからこその輝きなのかもしれない。そこにある「一瞬の永遠」と「尊さ」と「人間という愛すべき命」を、まるで人類を創り給うた神はこうやって愛しんで見ているのだろうかと思うくらいに、いろんな想いが去来する。

彼女が写真を撮っていたときも、多くの人に自分の作品は届くと思っていなかったかもしれない。思っていたがそこまで自分を認められなかったかもしれない。

私は今ほぼほぼ毎日何かを書く。それは自分という生き物の輪郭を内側からなぞりはっきりさせる作業でもある。

何故書くのか。何を書くのか。どこを目指すのか。

成果主義の観点からは私はloser(負け犬)だろうが、彼女の写真集を見るたびに思うのだ。私の内側から溢れるものがいつか誰かの手許に届き、一人でもいいから言葉にならなかった自分のうちのものに気付いてくれたら嬉しい。彼女の写真がそうであったように、多分評価やお金というものをいま生まなくても、私は私の書くものを愛していくだろうし それで自分を反省したり自分と周りとの距離を図ったりしていくのだろう。

私の書くこと、は、今何を生まなくてもいいと理解している。究極、私自身が享受するものが言葉にならないくらい大きいことを知っているから。時々ね、読んでもらいたいとか褒めて貰いたいとか、そういうのがチラチラ出て来るのは本当だけど、家の前を近所の子供達が走り去るときちらっと悪戯心を出してその足を緩めるみたいな、そんなかんじで過ぎていく。それでいい。

彼女の作品を見つけたジョン・マルーフは最初はあまりその価値を考えていなかった、という。彼女の死後、大量に残されたネガの詰まった箱をゴミ同然の値段で引き取り、プリントしてみて「もしやこれは・・・」と思ったという。私達は2013年につくられたドキュメンタリー映画を数年前(2017年くらい?)に観て彼女を知って、すぐ写真集を入手した。

こちらにどういう経緯で見つかったひとか、ということが詳しい。よかったらどうぞ。


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