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写真を撮ること

私には趣味とも呼べないレベルの薄く関心をもつことがいくつかあるが、そのうちのひとつに写真を撮ることがある。

下手の横好き。プリントもしないし、まぁ使うとしたら家族旅行アルバムに入れる写真のいくつかにするくらい。

それでも私は自分で撮る写真が嫌いではない。沢山失敗作もできるが、デジタルを使える時代なのだ、好きじゃなかったら消せばいい。記憶の補助であり、後述するが記憶と記憶を繫ぐもの。
そして最近思う、私は静物とか構造物を撮るのが好きなんだなぁと。
無機質のものには 私がどんなふうに世界を見たいか、が如実に表れる気がするから。

良い写真、と評価されるものを理解するのは大分昔に諦めた。
確かにすごい!というものもあるが、私のテイストじゃないなぁというのがよくある。
もちろん写真という芸術をよく知らないからだろう。でも芸術分野は結局、自分に引っかかるものがあるかどうか、だからな。

そして自分の撮った、自分が気に入っている作品って、絵画の世界の自分の好きな作品に似ている気がする。
そう考えると、私のぼやんとした「好きなもの」の形を、絵画鑑賞や写真を撮ることで少しずつ削り落として自分で顕わにしようとしているってことなのだろうか。

そういえば、娘が高校時代に取ったクラスで、「建築物を撮る写真のクラス」というのがあった。正解があるわけではないのだろうが、娘が撮って印刷したものをみると、私もその建物のところへ行って同じ風景を見ていたはずなのに、私が素敵だなと思ったのとは全く違う視点での切り取られ方がしてあり、面白いモノだとおもった。人間は本当に各自が別々の世界を見ているのだなぁとよく分かる。

先日訪れたミュージアムの小さなフォトアルバムを入手してきたのだが、これを見返してみてもまた面白かった。とても素敵な庭と建築物だったので後に見返せるようにと入手したのだが、家でしっかり見てみると どれもなんとなく自分のイメージと違うのだ。
いや、ちゃんと建物を覚えている。でも受ける印象が違う。好きだったのはそこじゃなかったんだよ・・・という感覚が続く。

多分私の撮るときって、その瞬間に切り取る範囲や光で私の遠い記憶のなにかと繋がるんだと思う。遠い記憶とこれから記憶になるものを繫ぐ作業。
当たり前だが本のなかの写真は私の記憶倉庫のものとぴったりとは繋がらないから「そこじゃなかった」なのかもしれない。

同じ場所を撮っているのに、影の入ったところを最小限にして撮るか、その影すら芸術の一部として撮るか、みたいな差。第三者的には「同じだよ」なのだろう。もしかしたら「やっぱりプロはプロで、あなたのは稚拙だ」なんだろう。
でもそれでいい。自分の撮ったものが嫌いじゃない理由を、私はやっとわかってきたから。

購入したミニアルバムには、いずれにも複数の写真家の作品が入っているのだが、やっぱり不思議と私の好きな写真をとるひとは決まっている。
会ったことも、これから先も会うこともないであろうプロの写真家たちだけれど、ちょっとだけ勝手に親近感を覚えたりするのだ。


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