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節分の日に考える、奇祭はなぜ冬に多いのかーーカーニバルと私的文化人類学

今年2021年の2月2日(火)は節分の日だが、キリスト教の「謝肉祭(カーニバル)」の最終日でもある。今では、欧米の観光資源化しているこのお祭りも、かつては冬の一番厳しい時期に、飲み食いして、バカ騒ぎするお祭りだった。思えば、日本でもなまはげや裸祭りなどの「奇祭」の多くは冬に行われる。なぜ、人間は冬に奇祭を行うのだろうか。


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極彩色の衣装をまとい、まくし立てるような躍動感あふれるサンバのリズムに踊り狂う群衆。古代の精霊を思わせる禍々しい異形の者たちの呪術的な行進。国により形は違えど、なぜカーニバルは、南米4億人もの人間を熱狂させるのだろうか。

 絢爛たる祭典の裏にある苛烈な歴史を紐解くと、それが為政者に蹂躙された人々の、自己の根源を忘れまいとする抵抗運動ではないのか、という気がしてきた。

 そもそも南米のカーニバルとは、欧州の征服者たちによってもたらされた「異教の祝祭」だ。

制服者たちが持ち込んだ兵器や疫病は、徹底的なまでに、先住民の国も、文化も、部族の結びつきすらも破壊した。数千年に渡る先祖の痕跡は、社会から亡失し、カトリックが社会の中心となった。少数の白人から被征服者として追いやられた先住民、奴隷貿易で連れてこられたアフリカ系の人など、人々は雑じり合い、全く新しい文化が形成された。

先住民とアフリカ系奴隷、そして征服者との混血者たちは、白人コミュニティの周辺部に住み、農業などの厳しい労働に従事する。こうして、わずか500年で南米の社会構造は、大きく作りかえられたという。

こうした人々が自己のアイデンティティを確認する場が、カーニバルなのではないだろうか。一年に一回、農業の閑散期に行われる祭りは、抑圧された民の救済であり、コミュニティの均衡を保つ装置の役割を果たしている。

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 抑圧状態への反抗は、カーニバルの発祥の地であるヨーロッパにおいてもしばしば見られた。

レオン・マルケは『ヨーロッパの祝祭』の中で、戦争などで世相が不穏な時ほど、祭りは過激化すると述べている。中世の記録をあたると、ある地域のカーニバルに関する記録のほとんどは、仮装の匿名性に乗じた蛮行を戒める教会の通達だったという。


 欧州のカーニバルでは、貧しい人々は王侯貴族に、富める者は貧者に扮する。一時、立場を入れかえることで、社会の奥底に重たく沈んだ不満を吐き出すのだ。人々は仮装することで、他者になり替わりたいという欲望を満たす。他者を演じ、憧憬に陶酔することで、自己の満たされない想いを昇華する。

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 一方で「仮装」を脱ぎ、自己を開放する文化も存在する。日本全国に見られる「裸祭り」だ。

 面白いことに、こうした多くの奇祭は真冬に行われる。欧州における厳しい冬の祭典であるカーニバルと同じ役割を持っているように見える。しかし日本では裸になり、祓い清めることで神聖性を高める。その点で、装うことで呪術性を演出する欧米の祭りとは真逆と言える。この違いはどこから来るのだろうか。

 日本の場合、民衆は自己を殺し、集団の一員を日常的に演じている。裸になることで素の自分に戻り、日ごろ隠している猛々しさを爆発させる。

 こうしてみると欧米のカーニバルと、日本の裸祭りは、日常への反逆の行進なのではないだろうか。姿を変えることで、どうにもならない己の境遇をしばし忘れる。これは日常への抵抗であり、ある種のカタルシスなのだ。

 鬱積した毒素を吐き出し、カーニバルはクライマックスを迎える。影が濃いほど、眩暈がするような強烈な光が放たれる。こうして蹂躙され続けた民衆の魂は癒され、また不条理な日常に戻っていくのだ。

南米のカーニバルでは、この日のために、財も家族もなげうって、カーニバルに人生をかけている人が大勢いるという。このコロナ禍で有名なリオのカーニバルも2月ではなく、7月に延期になった。マイナスのエネルギーが溜まると、お祭りで爆発されるエネルギーも高まるのだとしたら、2021年のカーニバルはどれほどの光を放つのか、楽しみでもあり、少し怖くもある。


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