最も強烈な欲望
私には、自分にとって最も強烈な欲望とはコレだ、というものがあります。
人生のあらゆる場面で、何度か、腹の底からぐおーっと、どうしようもないエネルギーが湧いてくるのを感じることがありました。
ぶち上がる欲望
一番に思い出すのは、武道の修行時代のことです。
教える教わる、という関係性においては、よくある話だと思います。
教える側は、良かれと思ってしてくれていたであろうことは、わかっています。
「こういう考え方をして、こういう行動をすれば、こういう風に幸せになれるからね」
かわいい教え子には、できるだけ傷つかないように、安全安心な道を教えてあげたい、という気持ちは、私も職業柄同じ立場にあるのでわかります。
しかしある時、違う…、私は、たとえ危険な道であったとしても、傷つくことがあったとしても、自分だけの体験をしたい!という強烈な感情が、腹の底からぶち上がってきました。
上がる、のではなく、ぶち上がる、です。
自分を体験したい。
自分を表現したい。
ビリビリビリッと、強烈に自分が立ち上がるというか、生きる力みたいなものが、パーン!と弾けたのです。
欠乏感という重要な機能
たぶん、誰もが、どこか満たされない想いを抱えながら、生きているのだろうと思います。
どこかに「完全なる幸せ」というものが存在しているような気がして、常に自分につきまとう欠乏感がいつかなくなることを期待して、あちこちと旅をするのだろうと思います。
それを求めることが、悪いことだとは思いません。
でも、「完全なる幸せ」になれないものが軽んじられがちなのは、ちょっと違うよなあと思うのです。
私は、欠乏感は、人間が人間であるための、重要な機能のひとつだと思っています。
欠乏感があるから、前に進もうと思えるのだと思います。
私が私である必要性
以前、インドの覚者、ラマナ・マハルシさんの本を読んだことがあります。
ラマナ・マハルシさんが、よく口にしていた言葉があります。
「それはマハルシにやらせなさい」
彼自身が言っているにもかかわらず、まるで他人事のような言い方です。
より大きな意識に至り、個人としての意識や執着がなくなるからなのかなと、私には、そう想像することしかできません。
なにそれ、なってみたい、と思う反面、こうも思います。
それって、私が私である必要は、あるんだろうか。
マハルシさんの生き方を否定するつもりは毛頭なく、マハルシさんにはマハルシさんの役割があり、この世の秘密をチラ見せしてくれるなど、マハルシさんにしかできないことがあったはずです。
が、それはマハルシさんの人生であって、誰もがそれをなぞる必要は、ないように思います。
先人たちが残してくれた「生きるための知恵」が、この世を生きていくうえで、ちょっと背中を押してくれたり、勇気づけてくれたりするものであるうちは良いのですが、逆に、人生を苦しくさせるものになるのなら、ちょっと脇に置いておこうか、というのが、私の考えです。
あなたのためよは誰のため
一度、書いてみたいと思っていたことがあります。
それは、あなたのためを思ってくれている人が、必ずしも、あなたのためになることを言ってくれるとは限らないよ、ということです。
その人の気持ちや言動を軽んじて良いということではなく、自分の心ありき、でなければ、誰のどんな助言を取り入れても、自分を活かす方向で物事は動いてはくれない、ように思います。
人間は、主観でしか物事を見られない生き物なので、あなたのためよ、というのは、実はその人自身のためだったりします。
矛盾しますが、でも、それもまた良いのだろうと思います。
前回の記事で書いたように、人や物事とは、出逢うべきときに出逢い、そこで化学反応が起こり、「仕合せ=幸せ」に繋がると思うからです。
興味のある方は、こちらもあわせてどうぞ。
どこを探しても、私は私しかいないのだから、人間的機能を上手に使いつつ、旅を楽しみたいと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?