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しあわせていこう

幸せとは

「幸せ」ってなんだろうな、と、ちょっと長いこと考えていました。

「幸せ」らしき気分の時、あ、これこれ、この感じをきっと幸せというんだろうな、と思うのだけれど、実感が強烈であればあるほど、「幸せ」という言葉が不自然に浮くというか、違和感を覚えるのです。

「幸せ」という言葉は、本当にこの(実感している)感じを表現して(できて)いるんだろうか。

よくわかってもいない「幸せ」を追い求めるって、そもそもなんか違うんじゃないか。

既存のものを疑うという、私の悪いクセです。

辞書には、こんな風に書かれています。

【 幸せ / 仕合せ 】
 運が良いこと。
 その人にとって望ましいこと。
 不満がないこと。
 めぐり合わせ。

ということは、運が悪く、望ましくないことが起こり、不満のある状態は、「幸せ」とはいえないってことか。

うーん。

語源と中島みゆきさん

さらに、語源を調べてみました。

「幸せ」という表記になったのは江戸時代以降で、元々は「仕合せ」と表記していたようです。

さらに語源を辿れば「為し合わす」で、それは、何か2つの動作などを合わせることを意味していたようです。

中島みゆきさんの「糸」の歌詞には「仕合せ」の方が使われています。

縦の糸はあなた横の糸は私
逢うべき糸に出逢えることを
人は仕合せと呼びます

糸 / 中島みゆき

仕合せとは

そういえば最近、こんなことがありました。

詳細を話すと長ーくなるので、ざっくりと。

夫があることを疑問に思っていて、とても不安そうに必死で説明してくれるのですが、何度聞いても、私には何が疑問なのかさっぱりわかりませんでした。

わからなすぎて笑っちゃうくらい、わかりません。

あまりにわからないので、もーわからん!と投げ出しそうになりましたが、何度か説明を聞いているうちに、なんだか脳みそをくすぐられる感覚があり、楽しくなってきて、私も必死に夫の話に耳を傾けました。

そうしたら、どこかでふっと、そういうことか!なるほど!確かにそうだね!と、夫の言いたいことがわかったのです。

夫がおかしなことを言う、なんて思っていましたが、むしろ、疑問に思っていない私の方がおかしかったのです。

そこを疑問に思える夫、すごいな!と、逆に尊敬しました。

それまでの2人の間の緊迫感が一気に和らいで、今度は一丸となって疑問に向き合い、解決に至りました。

なんてことのない日常の風景ですが、私はこの日の夜、布団に横になってから、今日も楽しかったなあ、と、この時のことを思い返しました。

「仕合せ」って、こういうことなのかな。

私の定義

たまたま楽しかったときのことを書きましたが、先に書いたように、例えば「運が悪く、望ましくないことが起こり、不満のある状態」であったとしても、それを「仕合せ」と呼べるのなら、常に「しあわせ」なのかもしれないな、と思いました。

「逢うべき糸」が、人間であるとも限りません。

動物、自然、出来事など、自分に変化をもたらす何かに出逢えることが「しあわせ」なんじゃないだろうか。

そう考えると、「しあわせ」とは、あったりなかったりするものではなく、いつもそばにあり、自分にしか表現できないもの、ということになります。

ただ、自分であるだけで、しあわせ。

と、今のところ、これでスッキリしたので、私は、この定義を自分に採用していこうと思います。

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