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いまひとたびシャバに出るために、こころにサリバン先生を

145.匂い

だいぶ暑くなってきた。正直、もうマスクなんてしてられっか! そんな気分である。

マスクについていえば、重度の花粉症患者ゆえ以前からマストアイテムと言っていい。それでもやはり、毎年4月もなかばを過ぎれば耐え難くなってマスクはせずにおもてを歩いていた。それがどうだろう、まさか真夏でもマスクが手放せない時代がやってこようとは。

科学的知見の積み重ねとでもいうか、ここにきて新型コロナウイルスの「傾向と対策」についてもうっすらながら見えてきた。空気感染ではないので、屋外で、ある程度の距離が確保されていさえすれば特にマスクをはずしたところで問題はなさそうだ。

とはいえ、町では大半の人たちがいまだ几帳面にマスクを着用している。アタマで問題ナシと理解はしていても、なんとなく人目が気になってマスクをはずすのがためらわれる。

たとえて言えば、みんながパンツを履いているなかで、ひとりだけスッポンポンになるようなきまりの悪さ。あ、このたとえは不要不急でした。

そんなじぶんの「長いものにはとりあえず巻かれておく方がコスパよくね?」的な安直さに辟易としながらも、ひさしぶりにマスクをはずしておもてを闊歩してみた。

おおお、まるで白黒だった画面が、いっきに総天然色になったかのような鮮やかさではないか。なにがそんなにちがうって? それはもちろん「匂い」の存在です。

青々とした新緑の匂い、雨に濡れたアスファルトから立ち上がるホコリの匂い、どこかの家から漂ってくる晩ごはんのみそ汁の匂い……。なつかしさ。道端に放置されたゴミの匂いですら愛おしい。生きている、そんな感覚。なぜなら、匂いとは、たしかに「いのち」が息づいている証拠でもあるからだ。

匂いを感じるのと感じないのとで、これほどまで世界の見えようが変わるとはまったくの驚きである。目や耳と同様、ぼくらは鼻、つまり嗅覚でも無意識のうちに世界を把握していたのだということにあらためて気づかされた。

ところで、知覚とは他者理解のキモである。目をもって、ぼくらは人間がそれぞれまったく異なる容姿を有していることを知り、耳をもって、ノイズをふくむさまざまな音が運んでくる情報の有意義さを理解する。

いま、ぼくらがいるのは、家に引きこもり、限られた相手としか交わらず、マスクによって匂いの遮断された閉じられた世界だ。この世界が長く続くことで、これまで知らず知らずのうちにできていた他者理解がむずかしいものになってしまうのではないか。

他人に対して不寛容とまでは言わないが、他人への配慮はおそらく鈍るだろう。これまで許せていたことが、許しがたく感じられるかもしれない。

子どものとき、ヘレン・ケラーの伝記映画を観ておののいた。サリバン先生が、いやがるヘレンを羽交い締めにしてドバドバ井戸の水をかけながら

ウォーター!!!ウォ・ー・タ・ー!!!

と教え込む壮絶なシーンにである。いや、羽交い締めは言い過ぎかもしれない。でも、それくらいサリバン先生の姿には鬼気迫るものがあった。

サリバン先生は、言うまでもないことだが、ヘレンに対してパワハラをはたらいていたわけではない。口で言って済むのに、わざわざ水をかけて面白がっていたのではない。多様な世界のありようを理解するためにはアタマだけでは足りない、直に体験するしかないという真実を知っていただけである。

ぼくらはいま、ただならぬ世界の渦中にある。アメリカの大統領だけじゃない。みんながみんな、そんな閉塞した状況のなかでイライラしている。

ウイズコロナ宣言とともに、さっそく街にはひとが繰り出している。当然いろいろなひとがいる。自粛中には接触のなかったような人たちだ。おかしな諍いが起こらなければよいのだが。

水は、ただ乾いた喉をうるおす心地よいだけのものではない。肌に冷たい真冬の水は、ときに苦痛をももたらす。世界は多様なありようをしている。そのことに、あらためて意識的にならなきゃならないのです。いまひとたびシャバへと出るためには。

こころにサリバン先生を。

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