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ノラ猫の作法でコロナ禍を乗り越える

202.ノラ猫の作法

366人。きのうの新規感染者数の話である。

ついこのあいだまでは、あちゃ、100人超えちゃったよ、とか、ウソ!200人? なんていちいち驚いていたのに、うん、まあそうだよな、と当然のことのように受け止めている自分がいる。あきらめ、というか、腹を括ったわけだ。

なんとかこのまま収束してくれないか、すくなくとも夏のあいだくらい落ち着いていてほしいと淡い期待を寄せていたのだが、どうやらそういうこともないらしい。この「366人」は、そういう現実を突きつける数字である。

なかには、感染者数が多いのは以前よりも検査数が増えているせいだと言うひともいるけれど、そうなると、もっともっと検査数を増やしたらそれに応じて千人、一万人と増えてゆくということなのでぜんぜん安心できない。コップ一杯の塩水が塩っぱいのは当然として、それをバケツに移してガンガン水を足したのに塩分濃度が変わらないってどういうことよ? そういう話ですよね。

いっぽうで、コロナの話題はもういいよ。そういうひとも多い。気持ちはわかる。ただ、目をつぶったからといってウイルスがなくなるわけではない。見えていないと存在しないを混同するのは悪手だ。

いま必要なのは、だからこの世界をぼくらはどう生きてゆくかという話である。先に「腹を括った」と書いたのは、つまりぼくは「こう生きてゆく」を決めた、という意味だ。

幸い、この数ヶ月で「敵」の性分はだいぶ理解できてきたように感じる。感染は、おもに飛沫を介してなされるということ、子供がかからないとか、若者は重症化しないという点についてもかならずしもそういうわけではないこと、など。また、無症状の感染者が子供や若者に多いのは確かなので、子供や若者があつまる場所の感染リスクはそれなりに高そうだということも。

こうした現実をふまえ、ぼくらはみずからリスクを取って、行動の指針を「自分で」決める必要に迫られている。

ヒトは、基本的に「集団」で社会生活を送る生きものである。そのため、集団にはこれはOK、これはNGといった「規範」がつきものである。窮屈さは否めないが、反対にいえば、それを守っていさえすれば自分ではな〜んも考えることをしなくてもそれなりに生きてゆくことができる。規範にはそういうところがある。

そのため、規範に慣れっこになってしまったヒト科のわれわれは、どんな非常時でもひたすらどこかから規範が下りてくるのをじっと待ってしまいがちだ。

迷走をつづける内閣のていたらく、スローガンは掲げるが具体的な指示はしない東京都知事といった批判も、つまりはひたすら規範を待ちわびるヒト科の習性からなされるものである。念のため言っておくと、個人的には政府も都知事もぜんぜん支持していません。

ただ、さっきも言ったとおり、いまは非常時、である。目の前に火の手が迫っているというのに、隊長からの指示がないからといって逃げないのは馬鹿ですよね。

隊長は思考停止して座り込んでいるかもしれないし、あるいはとっくに死んでいるかもしれない。つまり、この状況下にあって唯一信じるに足るものがあるとすれば、それはひとえに「自分」です。

そこでぼくが、いまこのコロナ禍のさなかにある日本で生きてゆくために必要と考えるのは、

ノラ猫の作法

である。ヒトではなく、ネコ。

道でノラ猫と出くわす。彼(女)は、注意深くじっとこちらを見ている。もし、ぼくがなんの関心もなさげに振る舞えば、彼(女)はちょっとだけカラダから力を抜いて、首のつけ根あたりを掻いてみたりする。ただ、けっして目をこちらから離すことはしない。

もし、ぼくが(それがたとえ好意だとしても)うかつに近寄ってゆくようなことがあれば、彼(女)はなんのためらいもなくさっと身を翻してどこかに消えてしまうにちがいない。

このとき、ネコはすべて自分のアンテナだけを頼りに観察し、判断し、行動しているのである。いまぼくらに求められるのも、まさにそうした野生にもとづく一連の行為ではないか。

感染者数や検査数、どこでどのようにクラスターが発生しているのか、その状況を観察し、それを自分なりにリスク判定した上で、みずからの社会活動に落とし込んでゆくのだ。

経済を回す、という言い方は好きじゃないのでしない。金科玉条のように「経済を回す」を主張する現代消費社会のヤバさについては、すでに50年も前にジャン・ボードリヤールという社会学者が予言しているとおり。とはいえ、このまま方向音痴の船長が操舵する船にのった状態で「自粛」や「我慢」を強いられつづけるのも正直しんどい。なにせこれは長期戦なのだ。

前回の話にもつながるが、人間はただ引きこもってばかりでは生きてゆけない。こころとからだのバランスを崩さない程度には社会活動も必要だ。だからといって、グループで居酒屋で大騒ぎするというのはあまりにおっちょこちょいすぎるだろう。ゾンビ映画の冒頭5分、「最初の犠牲者」となるタイプだ。

そこで「指針」となりうるのが、上に書いた「ノラ猫の作法」だ。ぼくは先週2回美術館に出かけた。ひとつはネットによる日時指定、もうひとつは混雑状況に応じて人数制限という対応のちがいはあったものの、マスクを着用した来館者はみな一様に静かに鑑賞しており、こうした環境下での感染リスクは低いだろうという実感を得た。

となると、おそらくおなじようにひとり客が静かに飲み食いしているようなバーや喫茶店も感染リスクは高くないかもしれない。客が全員高倉健みたいな居酒屋はOKである。会食は2人くらい、できれば必要に応じてマスク着用で。

エンタテインメントについても、人数を間引きした映画館で映画を鑑賞するぶんには大丈夫ではないかと思うが、観客が3分に一度大爆笑みたいなコメディーは、ぼくならいまは遠慮するかもしれない。ピアノやチェロの室内楽リサイタルも、マスクをしていない感染者が近くにいないかぎりはきっとOK。

ただし、身の回りに病人や老人がいるひと、こうした人たちと仕事で接するひとは、だれよりも注意を払って自覚的に活動すべきなのは言うまでもない。

その他はやはり前回にも書いたが、フィンランド人のように森を歩く、ひとりでぼんやりと自由な時間をすごすといった活動も、免疫力を上げるという意味でいまこの状況だからこそ欠かせない。ちなみにフィンランド人の云う「森」とは、ぼくらが考えるような山奥のことではかならずしもなくて、「木々があって気持ちよく過ごせるような場所」という意味。都心の片隅にある公園などでぜんぜんかまわない。

繰り返すが、ひとは一定の「規範」に則って「集団」で社会生活を送る生きものである。ただ、非常時にはそれはあてはまらない。非常時は、みずからリスクをとって「個」で生きるべき世界である。

そして、いまがまさにその非常時である。ノラ猫になった気分で、観察-判断-行動をすばやく決定する習慣を身につけることが、新型コロナウイルスと共存しつつ社会活動を行うことでストレスも最小限に抑えてゆく知恵ではないか、そうぼくは考えている。

野生に帰れというほど大げさなことではなく、とりたてて「ネコ耳」を着用する必要もないが、自暴自棄ではなく、理性的に自分で決定を下すことを意識していきたい。

203.最強の「もったいない」

以下、短めに。

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岩間 洋介/「Moi」代表

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