カフェに身をやつす居場所づくり
サード・プレイスとは、社会学者レイ・オルデンバーグによると
「とびきり居心地のよい場所(Good Great Place)」
「人びとがほかのどこよりも自然体でいられる集いの場」
「中立領域」
「庶民の治療薬」
「利己主義と利他主義の完璧な融合」
ということになり、その例としてイギリスのパブや、フランスやオーストリアのカフェ、あるいはリバーパークというアメリカの小さな町にあったメインストリートといった例を挙げている。つまり、
家とも職場とも異なる第3の居場所
ということだ。
オルデンバーグには知る由もないだろうが、落語を聴くひとには、銭湯や床屋が江戸の庶民たちにとってまさにサード・プレイスであったことを思い出すにちがいない。また、フィンランド人だったらサウナをサード・プレイスとして挙げるかもしれない。
ただし注意しなければならないのは、
みずから居場所であることを標榜する場所は居場所たりえない
ということである。居場所と言われたところで、居場所って何をするところですか? とたいがいの人は首を傾げてしまうからである。したがって、居場所はありふれた姿に身をやつす必要がある。
居場所は、誰でも気軽に訪れることができ、強制力は一切なく、帰りたいときに帰ることができ、なんの貸しも借りも生じないことがたいせつである。ぼくらMoiが主宰する居場所が、「喫茶ひとりじかん」という「喫茶店」の姿に身をやつしているのはそのためである。
ところで、オルデンバーグは、最良のサード・プレイスとは「男性だけか女性だけのたまり場」であると言っている。そもそも
誰もが居られる場所などありえない
そのため、オルデンバーグは、共有している部分が多くリラックスでき、異性を意識して会話の内容をセーブする必要もない同性同士のコミュニティこそが「良いサード・プレイス」たりうるとかんがえた。
ただし、そのあたりは現代ではずいぶん事情が変わってきているように思う。実際、個人的には同性同士による体育会系ノリや男子校ノリ(男子校出身ではあるが)はむしろ苦手だったりする。
この世界にはじつにさまざまな人びとが存在するが、性差や世代を問わず、少しでも価値観を共有している者同士が集える場こそがこの現代にあっては最良のサード・プレイスたりうるのではないだろうか。
誰もが居られる場所をかんがえるより、誰かが居たいと思える場所をそこかしこに作ること
喫茶ひとりじかんは、いまはまだ月に一度、ひとつの場所で開催しているに過ぎないけれど、これを起点にして展開してゆくつもりである。もし喫茶店やカフェのオーナーで、この居場所づくりに賛同してくださる方がいたらぜひ一緒にアイデアを練りませんか?
サポートいただいた金額は、すべて高齢者や子育て中のみなさん、お仕事で疲れているみなさんのための新たな居場所づくりの経費として大切に使わせて頂きます。