【映画】ブリング・リング The Bling Ring/ソフィア・コッポラ
タイトル:ブリング・リング The Bling Ring 2013年
監督:ソフィア・コッポラ
ブリング・リングとは「浪費と見せびらかしに明け暮れる人生」を意味するスラングらしい。この10年、インスタグラムが世界中で「映え」という意識を植えつけた様に、豊かな生活を思わせる一面を盛ってみせる事がセレブリティ関係なく繰り広げれている。インスタグラムで検索の画面を開けば、否応なしに他人の豊かだと言わんばかりの生活の一面が眼前に広がる。
僕がインスタグラムを使い始めた2010年(Wikiを見るとリリースが2010年の10月とあるので、出たばかりだったと思う)は、かつて使っていたポラロイドのSX-70に近い雰囲気を出せるフィルターがあったからだった(SX-70はポラロイド社の一眼レフカメラで、かつてアンディー・ウォーホールやアンドレイ・タルコフスキーが愛用していて、写真集も出ている)。
初期のアイコンもポラロイドを思わせるものだったし、恐らくアプリの作り手もスクエアの画角を含めてそういった使い方を想定していたと思う。ところが数年経つとSNS的な側面が強くなり、セレブリティの情報発信源としての認知度が上がっていったことや、芸能関係ではない人々の「映え」や、企業のマーケティングの場として広まっていった。今ではインスタグラムといえばSNSの主戦場として認知されている。
映画の中ではインスタグラム以前の時代ということもあり、登場するSNSはフェイスブックのみ。ツイッターもすでにサービスは始まっているものの、スマートフォン以前のブラックベリーが主だった時代の足跡が残されている。You Tubeやフェイスブック、ツイッター、インスタグラムと、この10年ちょっとのメディアの進歩を振り返えれば、インターネット上の情報の広がりはかつて我々はどの様に日々を過ごしていたのか思い出せないほど、それ以前と以後で大きな隔たりを生んでいる。
今では当然の様に登場するSNSやスマートフォンの存在を、早い段階で作品に落とし込んだソフィア・コッポラの視点は正しいと思う。アメリカのゴシップの世界とSNSの世界を繋ぎ、市井の人々をピックアップしたのは流石だと思う。デヴィッド・フィンチャーの「ソーシャル・ネットワーク」の様な当事者の問題はすでに描かれているものの、やはり主人公にするべきはメディアの先にある市井の人々の方がリアリティがある。今やインスタグラムから新たなスターが生まれている時代をスタイリッシュにしっかり落とし込んだ彼女の鋭さが、この映画の強度につながっていると感じる。
ニッキーを演じたエマ・ワトソンに注目が集まりがちではあるものの、他の俳優陣の存在も大きい。防犯ビデオに映っていなかったキャラクターが突然モブに切り替わったりする様は、かなりリアルで劇中でも「映っていなかったから」と謝罪にならない謝罪を告げる所も「犯罪とは?」と突きつけられる。本作のベースになっている実際に起きた犯罪は、貧困とは別の次元にある。登場するキャラクターに貧困層はおらず、中流家庭でセレブリティに憧れる人々しか登場しない。ハリウッドの上流に比べれば見劣りするものの、どの家庭もある程度立派な家に住んでいて不自由ない生活を送っている。
五人が並んで闊歩しているシーンに顕著だれど、そんな中流から一歩歩み出たいという私利私欲が「映え」という意識の中で醸成されていて、他人からどう思われたいかという価値観の中に生きているのがよく分かる。セレブリティがどの様に成り立っているのかという部分はごっそり抜けおちていて、彼女らの目に映っているのは、あくまでもゴシップ誌に載っているセレブリティの姿でしかない。ゴシップ誌を眺めながら、そこに移るセレブリティのファッションチェックしかしていない彼女らの視点がその全てだと言える。その裏に隠れている努力(根性論には落とし込めたくはないけれど)は、彼女らには全く映っていない。金銭を稼ぐ一流と、三流高校(劇中で何度かセリフで語られる)の彼女らとの大きな壁は、パパラッチが生み出した表面的な価値観と同等のものである。彼女らの顛末がパパラッチに収められているのは、この映画にユーモアを生んでいる。
エンドロールで流れるのがフランク・オーシャンの「スーパー・リッチ・キッズ」というのも、皮肉が効いている。出所がわからないお金と、刹那的な価値観から起きる悲劇。この映画のためにある様な曲であるものの、そういうわけでもないらしい。何もかもが出来過ぎなラストを飾るには、ジャストな選曲だと思う。
足の大きなパリス・ヒルトン(驚きの28cm!)のルブタンを履くマークは、ゲイだったのでは。ファッションの世界に憧れながら、クローゼットゲイの彼が美女に囲まれながら、「友情だった」と語るあたりや、下着姿の女性陣に欲情しない所や、初っ端で周りから虐げられている様子はそういった彼のバックグラウンドが垣間見られる。部屋でルブタンの靴を履いていたりと、彼がゲイである事を特定する要素はないものの、性的に見られていない環境を嬉々として楽しんでいる姿は、そういうことではないかと。単純にファッションが好きと言えるかもしれないけれど、キャラクター像としては彼がゲイであることの方が腑に落ちる。そのあたりは10年代のゲイカルチャーをさりげなく盛り込んだソフィアの手腕は見過ごせない。
フランク・オーシャンもその点に共感したのではと思わせる。10年代の空気を早い段階で感じ取ったソフィア・コッポラの佳作なのは間違いない。それをブックアップしたA24も中々のものだと思う。
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