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【映画】ソドムの市 Salò o le 120 giornate di Sodoma/ピエル・パオロ・パゾリーニ


タイトル:ソドムの市 Salò o le 120 giornate di Sodoma 1976年
監督:ピエル・パオロ・パゾリーニ

胸糞というかスカトロジーを含むアンチモラルが、今観ても胸焼けや嗚咽を誘引するほど徹底して描かれる。表面をなぞれば露悪的で背徳な描写の連続で、山盛りの排泄物のダイレクトな表現の捻りのなさに、一体何を考えてるんだ?と眉をひそめる。性的な描写も、処女姦通からアナルセックス、同性によるオーラルセックス(しながらのアナルセックス…意味がわからんw)など倒錯した悦楽博覧会の体を取る。脱糞シーンの間抜けさは笑ってしまいながら、それを食すように強要する所なんかは、歯に挟まったら臭いの取れなさそうなんて余計な心配もしてしまう。
マルキドサドの原作を戦時下の北イタリアに舞台を移して、ファシズムのメタファーとして描いた本作ではある。権力者による倒錯した悦楽を、権力のなすがままに楽しむ狂気は時代を超えて嫌悪感を催すし、不快な描写がカタルシスをもたらす事も無い。恐らくこの先百年経ってもここにあるアンチモラルな描写は、アンチモラルなまま存在し続ける時思う。要するに、ここにある人間が感じる根本的な不快さは、身近な不快感として永続的な普遍性を持つ。この映画がサディズムや性倒錯、スカトロジーがフェチズムへ回収されるかというと、そこは一線を画していると思いたい。パゾリーニが目論んだのは、あくまでもアンチファシズムであり、非人道的な振る舞いをする権力者の構造を描こうという視点であって、悪趣味博覧会の様なこの映画がもたらすのは、露悪的にそれらを暴ききる姿勢だと感じる。しかし、その両面から受け入れられてるようにも感じられるのが、この映画の難しい部分でもある。単純に不快だからと断絶することも、フェチズムとして受け入れる事も本質から逸れていく。ここにあるデカダンスを肯定する気はさらさら無いけれど、生理的な不快感をあらゆる選択肢が生まれる現代に置いてもなお、想起(言葉も描写も)させる力強いメッセージが含まれる。ここにあるのは純粋な暴力性であって、その暴力に対峙する事がパゾリーニが求めた事なんだろうなと推測される。
その一方で建物の豪奢なインテリアは凄い。全体にバーズアイの目が出たメイプルの装飾品の豪華さ。椅子、箪笥、鏡の高級なメイプルの木目。イタリアらしいインテリアの豪華さと、対象的な卑猥さ。俗っぽいドラマと対になる豪華絢爛な建物の高級さは、より露悪さを強める。ラグジュアリーなモリコーネの音楽もそれに輪をかける。
露悪趣味という点では、ジョン・ウォーターズの「ピンクフラミンゴ」が先立って食糞(こちらは本物)があったりもするが(1972年公開)、ゲンズブールの著書「スカトロジーダンディズム」や、スロッビング・グリスルの「The taste of TG」のジャケット、ギャスパー・ノエ、ラース・フォン・トリアーなど倫理観を揺さぶる表現者達への影響は少なからずあるのかなと思う。表現としての背徳感の系譜は、連綿と続く世界観なのかなと。食事前には観たくない作品なのは間違いない。

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