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【映画】違国日記/瀬田なつき


タイトル:違国日記 2024年
監督:瀬田なつき

全体のテンポ感の心地よさに浸る。なんだろう?あとあと一時間続いても苦にならないというか、むしろ終わってほしくない居心地の良さが画面全体から伝わってくる。物語自体は両親を事故で亡くした主人公の中学生である朝と、孤児となった彼女を引き取った叔母槙生の生活が主題であるが、それぞれが抱えるペルソナと距離感の話でもある。というよりも、こちらの方が主題とも言える。
人と人とが理解し合えない領域、それは環境だったり、年齢や血縁関係、友人だとしても当然その人の一面しか垣間見る事は出来ない。親子だとしても、行動パターンは読めても心の奥底までは覗くことは出来ない。夫婦関係に於いても理解出来ない事なんて山ほどあるから、それこそ山ほど離婚が発生するのだろう。ましてや叔母と姪の関係なんていうのは、頻繁に会っていなければ血縁の近さと実際の距離感が一致する事なんてあまりある事じゃない。
とはいえ親でもなく友人でもない叔母と姪の関係が一体なんなのか?それを朝と槙生と醍醐の会話の中で問われると、物語の人物たちだけでなく観ている我々も「はて?」と疑問に思う。親族と簡単に切り分けられない関係性を表す言葉が無い事に気付かされながらも、その間に漂う関係性がその瞬間に言葉に出来ない感情と空気を醸し出してくる。
この映画で描かれる人間模様は、それぞれのペルソナから一瞬自我が漏れ出る瞬間があり、間に流れる感情と空気が醸成され、埋まることのない理解と距離感のまま隙間から想いがするりと顔を出す。絶対的な距離感は縮まる事なく、相対的な距離感がお互いの感情の行き来を生み出してくる。10代の無邪気な無遠慮さは大人の世界に入り込もうとするが、余裕を見せながらけんもほろろにあしらわれる。しかし、大人も子供も他人の見えない領域への恐怖と不安を抱えている。今の社会全体が、まさにこの状態のようにも思えるし、特に若い世代ほどSNSなどの影響で他人との距離感に対してセンシティブにならざるを得ない環境だろう。台詞にあるように、ただ大人の側も、突然大人になったわけでなく、子供からだんだんと大人と言われる年齢に達しただけのグラデーションの中で、何となく大人の皮を被って生きている。社会に出れば人との距離がうまく取れる訳でもなく、他人の理解の出来なさにぶつかり続けているのが現実ではある。
生きづらさをテーマとして持ちつつ、単純につらさを描くわけでない。理解出来ない他人と、それでも理解し合いたいという気持ちは、時に寄るべない軋轢を生みながら、会話を重ねる事で少しでも相手を理解する事へと近付いていく。名前の付いていない言葉に表せない関係。思い返すほど、そこにある関係性のバリエーションにはっとさせられる。

瀬田監督が脚本と編集とクレジットされているのを見て、ここにある空気を生み出すテンポ感が何故心地よいのかが何となく理解出来た。もちろん、全て担うから出来るという訳ではないにしろ、三つを掛け持つ事で入り込む距離感を上手くコントロール出来たのかなと感じる。いやはや凄い。

朝役の早瀬憩のコロコロと変わる表情の素晴らしいこと。周囲の同級生を眩く見る視線と、ひたむきなキャラクターは映画に程よくマッチしていた。
ガッキーは正欲に続いて、無表情キャラが中々良かったが、台詞の硬さが取れない印象が否めない。でもこういった配役は続けてほしい。
ポストクラシカルな感じだなと思ったら、サントラは高木正勝だった。


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