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【映画】アワー・ミュージック Notre musique/JLG


タイトル:アワー・ミュージック Notre musique 2004年
監督:ジャン=リュック・ゴダール

遺作となった20分ほどの短編「遺言 奇妙な戦争」は映画というよりもインスタレーションっぽい作品で、語りにもあったように予告であり絵コンテというか青写真をまとめたような内容だった。デビューから最前まで一貫した彼のアティチュードは、常にポストモダンであり、かつリアリストでもあったという事を作品に触れるたびに思い起こされる。
「イメージの本」もそうだったが、この短編もボスニアとイスラエル/パレスチナ問題が内包されている。90年代以降のゴダール作品の中でボスニアの変遷が度々語られ、同時にパレスチナ/イスラエルの事も言及する。ポストコロニアルと現在進行形のコロニアリズムが一番色濃く出ているのが「アワー・ミュージック」であり、その作品を引用しつつ現在へと連なる作品としてプロトタイプのみが残った「遺言 奇妙な戦争」だった。
20年という時間が経ってもなお、イスラエルとパレスチナの問題は収まるどころか、激しさを増し一年前は予想も出来なかった状況にまで発展してしまっている。皮肉にも「アワー・ミュージック」で描かれた2004年のボスニアのポストコロニアルな状況は、この先のパレスチナの状態を示唆してしまっている。ガザの壊滅的な被害状況と、民族浄化を突き進むイスラエルの傍若無人で不条理な様は、結果的に数年後にはポストコロニアルな状況へとシフトせざるを得ないと思うが、それ以上にガザの人々が国に留まることも出来ず、復興もままならない現実へと突き進んでしまっている。映画の中でも和解は打ち砕かれるが、現実はそれ以上に酷い。
映画館でオルガが赤い本を取り出した瞬間に射殺されたという事は、「中国女」でのレッドブックを想起させる。1967年から始まったアクティヴィストとしてのゴダール自身の無力感と死への願望は、自殺というゴダールの人生の結末を知った上で観ると既にこの頃に彼の死生観はこの頃には決まっていたのかもしれない。となると、彼の中では来世への希望を見出して死を選んだとも言える。「アワー・ミュージック」こそが彼の遺言であり、変わらず泥沼のまま現実への失望と、解決のための希望、そして希望の先の更なる絶望。我々はその絶望の中の希望を見出して生きなければいけないという現実が重くのしかかる。
本作も多分に漏れずドラマツルギーが希薄な作品ではあるが、物語の中でオルガの死を知る時のゴダール役のゴダールが淡白に反応する姿は実のところ実際に死に触れた時の感触に近いのかもしれない。ドラマ性を否定しつつ、ドラマに収斂されていくこの映画は、形而上的なカタルシスを生み出す。死後から転生へと至る世界を思わせる世界は、アダムとイヴを思わせるリンゴを齧るシーンは宗教的でありつつ、それを否定し超越した感もある。
それにしても80年代以後のゴダール作品の多くは洗練されていて、映像の美しさがある。一方で耽美への耽溺を否定するかのように、「勝手にしやがれ」から続く音楽と映像の断絶が常に繰り返される。音は急に止み、環境音の中で滑稽なまでに無音の舞踏が続く。
音の存在も重要で、所々にある無音や空間の本来の鳴りはばっさり切り落とされている。映像と台詞だけが前景化し続ける事で、画面に映る場所から切り離され言葉と無音と音楽が醸成する景色が生み出されていく。不思議と空間の余韻はオミットされて、言葉の音節が距離を詰めて迫ってくる。ドキュメントを内包しながらも、フィクションの世界にいるのだと物語が終わるタイミングで気づかされる。それらは非現実的な描写なのに、現実へと侵食していく感覚を覚える不思議さ。音と映像と言葉。ゴダールが実践したソニマージュという手法が、単なる技術を超え感情に訴え現実問題として横たわる軋轢を映し出している事に、感嘆させられる。彼が時代の移り変わりと共に変化し続け、プリミティブとソフィスティケートを行き来し、アマチュアイズムというプロ意識を常に掲げていたのを強く感じさせる傑作がこの「アワー・ミュージック」ではないか。ゴダールは死後も現実と本質を常に問いかけ続けている。

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