ケリー・ライカートの映画の中の主人公や、そのほかの登場人物たちは映画の中を迷い続ける。
時に目的もなく彷徨い、場所に迷い、行動に迷い、心が迷い、選択に迷い、不意に起きる出来事に戸惑う。フィジカルな迷いとメンタルな迷いが同時に合わさることで、焦燥感と不安感がじわじわと醸成されていく。こう言った時の気持ちや感情は、同じ境遇でなくても誰でも何かしらで経験するものだと思うが、観ていると段々とその様な気持ちがフラッシュバックしつつ、じわりと汗をかいた時の様な、肌の感覚の記憶まで呼び起こしてくる。しかしそれは極端な緊張をもたらすような表現じゃなく、現実にある様なペースや起伏で描かれているから肌実感として肉薄している。
1964年に生まれフロリダのマイアミで育った彼女は、学生時代から映画を作り始めたが、映画学校で専門に習ったわけでなく、作りながら学んでいったという。学生時代に授業で触れたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの作品について「とてもパーソナルな映画でありながら、同時に政治的な一面を持っていて、こんな映画が作ることができるのかと、衝撃を受けました」と語っている。
ライカートは1963年生まれのクエンティン・タランティーノとほぼ同世代にあたる。1994年の長編一作目の「リバー・オブ・グラス」以前は1988年にニューヨークに居を移し、ハル・ハートリーの「アンビリーバブル・トゥルース」(1989年)やトッド・ヘインズの「ポイズン」(1991年)でスタッフとして関わっていた。「リバー・オブ・グラス」に感動したトッド・ヘインズは「オールド・ジョイ」以降エグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ねている。
地元フロリダを舞台にした本作は、主人公の出生とフロリダの土地を語るイントロダクションから始まり、ぱっとしない街に暮らす主婦である主人公がひょんな事から飲み屋で出会った男との逃避行が描かれている。その最中に警官である主人公の父親が銃を無くし、その銃がきっかけで物語が転がり始める。
さえない雰囲気の登場人物たち、やたらと散らかった部屋の生活感溢れる背景、取り繕ったようないわゆる映画的なウェルメイドではない表現の生々しさは、ライカートの実生活と結びついていたからこその距離感が生み出されている。
ハル・ハートリーの初期作に近い雰囲気が感じられるが、一番近いのはライカートがフェイバリットに挙げるバーバラ・ローデンの「ワンダ」だろう。
「ワンダ」で描かれた家庭に収まりきれない女性が成り行きで選ぶ、人生からのドラスティックな逃避行の描写は確実にこの映画に影響を与えている。
この頃、ライカートはまだ編集技術を持っていなかったため、ラリー・フェッセンデンによって編集された。タイムコードは使わず、持っていたフィルムを目測で合わせてカットし繋げていった。ライカートは編集作業の最中でナレーションを書き上げていった。
ライカートは「リバー・オブ・グラス」完成の後、次作までの11年間もの長いブランクを挟みつつ、5年にわたる放浪生活を行った後、短編を撮っていた。車ひとつでノマド生活を送るクロエ・ジャオの「ノマドランド」に先んじて、家を持たない放浪生活を映画の中で描いた理由は、ライカート自身が実際に放浪した体験と、その末に自問自答したひとつの結論が結びついている。
長いブランクの最中、放浪生活を経た後に学校で教鞭を取った事で学生からも色々と学ぶ事が大きかったという。世界中を旅する学生たちが自分の知らない作家の本を読んでいるのを知り感化された。
次作までの長編映画を中々作る事が出来なかった原因は、自分が女性であることで予算を獲得出来ない事が大きな要因だった。