見出し画像

【映画】アメリカン・ユートピア David Byrne's American Utopia/スパイク・リー

画像1

タイトル:アメリカン・ユートピア David Byrne's American Utopia
監督:スパイク・リー

「アメリカン・ユートピア」は身体性を強く感じさせられる映画だった。当然言葉の役割も大きく、デヴィッド・バーンが語りかけるTEDのプレゼンテーションさながらの言葉を観客に投げかけるし、歌の歌詞もBLMや政治など現代の問題提起として主題を持っている。ただそれと同時に体が表現するものの比重もかなり大きい。ダダイストのフーゴ・バルの詩を引用した「I Zimbra」の話が出てくるように、一見計算されているようには見えない踊りは言語を持たないけれど、観客とのコミュニケーションの表現として存在しているようにも感じられる。

不謹慎かもしれないが、手話にある言語伝達を抜き去って身体性のみを取り出して、意味をなさないけれど体の動きがもたらす視覚的なコミュニケーションを形取ったような、そういった感覚がある。身体が放つプリミティブな感情表現としてのコミュニケーション。口から発せられる言葉や歌詞とは違うレイヤーで身体的な動きが同時に入ってくる感覚があった。そう考えると奏でられる音楽は踊りよりも言語的なニュアンスがあったのかもしれない。
奏者は全員ワイヤレスでステージ上を縦横無尽に駆け回る。サンバのバテリアやニューオリンズのマーチングを思わせるリズム隊は、一人で複数の楽器を賄う合理的だけれど地面に固定されて身動きが取れないドラムの形を取らない。複数のパーカッショニストが全員身動きが取れることで、見た目にも躍動感が生まれてくる。ひとりがひとつの楽器を持つミニマムな形は(複数のパーカッションを操ってはいるけれど)非合理ではあるが、楽団としての演奏スタイルをドラムセット以前に回帰させている。ラスト近くで全員がコーラスに回っているように、複数の人間が合わさる事である種の身体的な磁場が生まれてくる。各々で役割を分担する事で、身体性が際立って感じられた。サンバのバテリアやニューオリンズのマーチングに比べればミニマムな編成だと思うし、分担させながらも必要最低限に抑えているのもポイントだと思う。 ライブではクインテットが入っていたり、2013年のセイント・ヴィンセントとのコラボでブラス隊を導入していて、シンセサイザーやサンプリングを使った合理性から離れた身体性はこの10年のライブを見てもよく分かる。まあ遡れば拡張版トーキング・ヘッズの延長とも考えられるのだけど。

ユニフォームのように全員同じスーツを纏いながら、裸足でステージに立つというのも西欧観念的なスーツと生身の裸足という対照的な姿も身体背を際立たせている。
一方歌詞に注目すると、改めて字幕の訳詞に触れて思ったのがフォークソング的な人生観を盛り込んだ人なのがよく分かる。家という最小単位から都市生活の孤独感といった、身近なものをテーマにしたものが多い。いち時代を築いた人なのに、終始市井の人々の汲み取っているのも面白い。安らぎの拠り所としての家は、居座り続ける他人を邪険に思う場所でもあり、何者にも代えがたい場所であり、ただの建物でもあるし、焼き払う対象でもある。同じようなテーマを扱いながらも、それぞれ視点は異なっていて、ひとつの事柄でも気分や体調で感じ方が変わるように、安心と不安、安らぎと恐怖がないまぜになっている。
なにはともあれ、最高のライブムービーなので是非映画館で体験して欲しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?