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【映画】栗の森のものがたり Zgodbe iz kostanjevih gozdov/グレゴル・ホジッチ


タイトル:栗の森のものがたり Zgodbe iz kostanjevih gozdov 2019年
監督:グレゴル・ホジッチ

土葬のように落ち葉で埋められる栗。前時代的な生活を送る打ち捨てられようとされる誰も見向きもしない村に暮らす人々。若い世代は村の外へと移住し、残された人はそこに暮らすか移住を試みるかのどちらかなのだけど、村から出るにもお金がいる。村の収入源のひとつだったと思われる栗は、無用の長物として埋められてしまう。しみったれた大工と記されるマリオが栗の木で作るものは棺桶ばかり。生活の中で使う家具は贅沢品であって、今の経済的な利益を産むものでは無くなってしまっている。村の経済状態と、誰も求めていない栗材の家具を作る事への熱意は今という現実からは遠く離れてしまっている。マリオが出会う最後の栗売りのマルタも村を後にしようとしている。かつてあった村の姿を拠り所にすがるマリオと、どうにもならない現状に愛想を尽かしたマルタの物語なのだけれど、1950年代という時代が垣間みれるのは写真に映る車だったりもする。大量生産の時代に、馬車やクラフトの工業が未だに残る村を比較すればどの様な状況なのかは自ずと見えてくる。
冒頭で記されるスロヴェニアとイタリアの境の場所というのは、西と東の境目であり、冷戦の最中で引き裂かれる場所である。東欧側の社会主義圏と、イタリアの自由主義圏の狭間であって、西側に移るかそのまま居続けるかは経済的な理由も大きい。パンフレットにも書かれている様に、国民の1/3が移住している現状が物語のバックグラウンドにある。
水瓶から洗面器に水を注ぐ様に前時代的な生活が描かれ、現代的なインフラも整っておらず、雑誌で西側の情報を知る。豊かな経済や生活にありつきたいと思うのは、当然だと思うし体力があれば出ていくだろう。医療もいい加減で、第二次大戦の爪痕も残る。その狭間の中で愚直に生きようとするマリオの姿は痛々しいまでも実直であった。
そのような場所を象徴するのが言語で、イタリア語とスロヴェニア語が入り混じり、国境らしい様が如実に表される。大陸ならではの事象なのだけど、彼らのアイデンティティは何処にあるのだろう?その揺らぎが人々の根底に流れている所がこの映画の肝な気がする。
フォトグラフィックかつ、フェルメールを想起させるピクチャレスクな映像は、物語以上に饒舌に映像で語る。仄暗い森の中で自然光がもたらす絵画的な美しさが脳裏に焼き付く。
祖国を捨てて移住する人々と居続ける人々の物語は、昨今のウクライナとロシア、パレスチナとイスラエルの紛争が生み出す分断ともどこかオーバーラップする。東西冷戦以降の歴史は、まだ終わっていない現状と過去の状況がこの物語にも通底鋭いテーマでもあると感じられた。

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