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【映画】アフターサン After sun/シャーロット・ウェルズ


タイトル:アフターサン After sun 2022年
監督:シャーロット・ウェルズ

世代や立場で見方が変わる映画だと思う。同じ年頃の子供を持つ親や、二十歳くらいの世代、子育てが終わった人、リアルタイムで経験しているのか、幼い頃を思い出すのかで感じ方は異なるはず。どの世代にせよ、幼かった時に親が何を考え、日々を過ごしてきたのかを振り返る時、それは写真だったりビデオの記録と、その時の自分が見た世界が補い合ってその時の思い出が作り上げられていく。けれど記録の中でしか覚えていないものもあれば、些細な出来事が妙に記憶に残っていたりもする。恐らく主人公のソフィは、残されたビデオを繰り返し観ながら、その間にある出来事を頭の中で反芻していたのだろう。彼女と父の一夏の記憶が強く残っているのは、幼い日のソフィの中で取り戻せない父との関係が強く刻まれているのではと感じる。
11歳の時のソフィの視点は、まだ子供ではあるのだけど大人の世界が少しずつ理解でき始めてた頃で、周囲の大人たちの言動や行動、異変には気づいている。一緒にプールに飛び込むシーンが顕著だけれど、自分がその輪に加わっても何もする事は出来ない。映画の中ではソフィの視点が主になっているが、当然それらを理解出来る大人になったソフィの視点が加わっているようにも思える。

長回しというほどではないにせよ、カットを切らずにじっくりと静かな時間を映しとる場面が強く印象に残る。監督曰く小津安二郎の作品を観て、人が映らない場面の長さを測って塩梅を決めたという。ベランダでひとり踊る父親の姿など、動きの中で静かさが描かれる。不穏なスコアが不安を掻き立てるが、何かが起こるわけでもない。寝息などの呼吸音が醸し出す、肌に触れているような距離感が生み出され生々しくインティメイトな空間が醸成される。スクリーンとの間に、肌と肌が触れるような感覚はこの映画全体に貫かれていた。
冒頭から差し込まれるレイブのシーンは、よく見ると大人のソフィと記憶の中の父の姿が明滅の中でゆらめいている。11歳から20年が経ち、父と同じ歳になったソフィが父と同じ場所にいる。最後に撮った別れのシーンの直後に個室から父が向かうのはレイブ会場であり、自分が今いる場所でもある。それは父と幼い自分との別れでもあり、過去の記憶との距離でもある。父との記憶を辿りながら、幼き自分の記憶も遠ざかり、父の立場に肉薄していく。鑑賞後に頭の中で反芻する中、ここに気づいた時、失われた時間への郷愁と想いがひしひしと伝わってきた。
説明の多い映画ではないので、実際に何が起きたのかは想像するしかないのだけれど、父カラムの年齢を考えると若くして子を持ちながら、妻との関係が破綻し、エジンバラからロンドンへと職を求めて移り住んだと思われる。イギリスから遠く離れたトルコの地は、イギリス人御用達のリゾート地が舞台となる。劇中でもお金がないと娘から心配されるが、若者と老人ばかりのリゾート地は恐らく安い宿泊の場所なのではないだろうか。経済的な不安定さや、離婚、恋人との別れ、軌道に乗れない仕事など、日常の不安の中で離れた場所に暮らす娘との数日間は幸せな父親像を取り繕う。穿った見方をすると、劇中で同性愛の描写が二度描かれていて、カラムも隠れ同性愛者だったのかもしれない。ホテルでの男性同士のキスシーンと、大人になったソフィは同性の恋人を持つ描写は、それを示唆している可能性がある。全てが掛け違ってしまっている大元にカラムが抱えた悩みがあるとも憶測する。ラスト近くで流れるディヴィッド・ボウイとクイーンの共作「Under Plesure」が流れるのも、あらゆる意味での重圧が示唆される。
ブラーの「Tender」が流れる所から舞台は1998年辺りだと思われるが、ロスデルリオの「Macarena」、チャンバワンバの「Tubthumping」など90年代のヒットソングが既に四半世紀前というのも感慨深い。
カラオケで歌われるREMの「Losing my religion」も、”自制心が失われる”という歌詞とゲイを公言しているマイケル・スタイプを考えると色々繋がってくる。
ウェルズ監督はシャンタル・アケルマンのジャンヌ・ディエルマンを参照している(ここでもアケルマンが!)と発言している。アケルマンも同性愛者であり、彼女の作品の中でもそういった描写がある。あらゆるリファレンスから紐解くと、この映画のバックグラウンドが見えてくる。とはいえ具体的な説明があるわけではないので、想像するしかないのだけれど。


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