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【映画】Mommy マミー/二村真弘


タイトル:Mommy マミー
監督:二村真弘

1998年当時のメディアの過熱ぶりはよく覚えている。というのも個人的な事ではあるが、丁度ひと月前に恋人を事故で亡くた出来事があり、僕の家族と彼女の家族との間で亡くなった事への大きな混乱の最中だったというのもあった。人がひとり亡くなる事の重みを僕だけでなく、周りの多くの人が抱える最中に起きた事件であり、複数人亡くなってしまった事件の事の大きさを肌で実感した出来事でもある。それは僕の中での1998年の夏の記憶と共に、それは少なからず紐づいてしまっている。
本作は林真須美の冤罪疑惑と、現在の長男と林健治を取り巻くドキュメンタリーである。矛盾が生じる事件当日の検証と、そこに至るまでの林家の異様な保険金詐欺が詳らかにされる。あっけらかんと保険金取得へ至る道程が語られる場面は、受刑を終えた現在だからこそ語りやすいものかもしれないが、それにしても大っぴろげな語り口は軽い。そのヤクザな様の憎めなさは、ある時代のおおらかさを感じつつ、今起きた出来事だったら大悪党として扱われたのだろうなと感じてしまう。
そしてこんな出来事があったにも関わらず、至極真っ当な価値観を持った長男の姿に安堵を覚えた。とはいえ家族を持つ事を許されないと感じる孤独は、想像を絶するものがあるだろう。父健治とのやりとりを見ていると、そこにある達観した前向きさには好感さえあった(部屋のギターとKing Brothersの帽子も親近感がわく)。
一方で会話の中で姉二人の死を示唆する内容があり、長女については言及されていたが次女についてはなにも語られなかった。まあそれはそれで良いのだけど、長女の心中については調べると更なる闇が見えてくる。

映画の中では事件を苦に亡くなったような形で描かれていたが、実情は全く異なり娘へのDVが原因で死に追いやってしまった結果、幼い子を道連れに心中したというのが実情のようだ。全ての起因は事件にあるのかもしれないが、映画で描かれていたものとは、また違う現実がレイヤーとして横たわる。これだけでひとつの物語になりそうな出来事だけに、全てを入れると収まりがつかないと思うが、こちらもこちらで事件から派生した出来事として重くのしかかってくる。
本作で描かれる検察の問題は、先日の大川原化工機事件も想起させる。検察側で作られたストーリーに沿って、証言を取ろうとする実態や、検察側に都合の良いように仕立てられた事件と酷似する内容が重複してくる。大川原化工機事件は冤罪を勝ち取ったが、死刑が確定してしまった本件は検察側の沽券にもかかわってくるのか、当事者は皆口をつぐむ。焦った監督は事件を起こす顛末で(先日話題になっていたアップルのAir Tagを使って足がついたのでは?と邪推する)、実のところドキュメンタリーとしては破綻してしまっている危うさも内包してしまっている。五年という歳月をかけて描こうとしているだけに、この顛末は少し残念な終わり方でもあった。
最後に死刑について書き記しておきたい。僕個人は死刑には反対である。臭いものには蓋をと言わんばかりに、犯罪者と決めた人間を死刑で処罰するのは、あまりにも非人道的であるし、事件の究明からは程遠い。被害者の立場からすれば、死刑執行してほしい気持ちもわからなくは無い。この世から抹消して欲しいのは充分理解できるが、死刑が全てを解消するかというと疑問に思う。終身刑が税金からのコストのかかる事も承知している。しかし、死刑がまかり通ると冤罪もそうだが、社会の歪みを検証する機会が大きく損なわれる。さらに言えば、権力者による裁きが権力者の都合で処刑される事も想定しなければいけない。独裁政権や軍事政権が成り立つ国の実情を知ると、権力者の都合で処刑が成り立ってしまう危険性も充分に孕んでしまう。そう考えれば、死刑制度の非人道性と、そこにある社会の歪みは解消されないまま葬られる事になってくる。世論の流れのまま、メディアで作られたストーリーを追うように検察が誘導し、死刑への導きをだす流れは今一度立ち止まって検証するべき事案なのでは?と強く感じる。世間が個人にドラマをおわせる在り方は警鐘を鳴らしたい。人ひとりの人生はスペクタクルではない。わかりやすさからくるドラマ性の関係は、本作も無縁でないと強調したい。

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