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【映画】黄桃の味 طعم گيلاس‎/アッバス・キアロスタミ

タイトル:黄桃の味 طعم گيلاس‎ 1997年
監督:アッバス・キアロスタミ

当たり前だけれど、日常生活の中で人と接した時に表情から相手が何を考えているのか、どういった感情なのかを我々は常に読み取っている。コミュニケーションの術は言葉と同じくらい、もしくはそれ以上に対面している人の表情は重要になる。方や映画やドラマなど物語で描かれる表情はコミュニケーションとは違い、ある種の記号として映し出される。楽しいのか悲しいのか、それとも苦しいのか恍惚としているのか。時に過剰に演技が入ることもあれば、情報が全く与えられず何を考えているのか分からないまま物語が進む事もある。本作の主人公バディの表情から彼が志願する自殺幇助への動機は読み取れない。何故死を選ぶのか、その理由は語られないし辛さが全面に出ているわけでもない。カメラは車中の彼の表情を横と前を淡々と映し出す。会話劇の割に彼が何を思い何を感じているのかはその表情からは窺い知れない。
三人の男に声をかけて、自殺幇助を依頼しながらも、1人目の少年は不穏な空気から実情を悟って逃げ出し、2人目の神学生はコーランの教えに背くと断りを入れる。3人目の老人(アラン・トゥーサンに似てる)は幇助を受け入れながら、四季それぞれに実る果実の話と共に生きる事を話す。老人がかつて自殺しようとして桑の実を味わった事で未遂に終わった事や、タイトルにもなっている黄桃を食す事について話す事で生きる事を切々と語る。
老人と出会ったバディは何かにすがるように、切迫した表情を見せる。しかしその先にあったのは、老人がウズラを解剖する死を目撃することだった。死に直面した事で、バディの中で何かが変化した事が彼の表情で描かれていた。
唐突に挟まれる撮影風景は、映画の裏で登場人物たちや撮影スタッフの日常を映し出し、生活が続くことを暗示している。いきなりメタな表現に切り替わる終劇に多少面食らうのは否めないものの、死と生に対してポジティブな意見を投影しているのではないだろうか。

この映画が凄いのは、常に日の傾いた夕暮れまでの時間を延々と描いている事だと思う。何度も同じ時間帯で撮影されたと思うし、全体の色調のトーンが統一されているから、ファンタジックなまでに幽玄さを感じさせる。時間帯は午後四時から六時くらいまでの時間だと思うが、夕日が映し出す荒涼とした山の景色の美しさは筆舌しがたいものがある。舗装されていない道と、地肌が見える山の景色と畑や溜池。死を渇望する非日常の中の男と、日常を暮らす人々の活気のかる表情。それを照らす夕暮れ近い太陽の光。その対比の中に浮かび上がる景色の美しさが強く印象に残る。

つい先日キアロスタミは盗作とセクシャルハラスメントで訴えられた。

1990年のクローズアップがリバイバル上映される予定だったが、公開延期となった。素晴らしい作品を作る監督ではあるが、非常に残念な出来事であり、被害者への救済が気になる所である。

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