【映画】ナミビアの砂漠/山中瑤子
タイトル:ナミビアの砂漠
監督:山中瑤子
正直なところ山中監督の「あみこ」はうまく消化出来ず、この十年観た映画の中でも一番言葉にしづらい感覚があった印象が強く残っている。拗らせた主人公の突っ走った生々しさと勢いだけは体の中に残っているものの、どうも心に引っ掛かりが残る感じでは無かった。とはいえ、その印象が残ってるだけでも、引っ掛かりと言えるのだろうけど、どうもそれを言葉にできる感覚を持ち合わせていない自分に面食らったとも言える。
本作「ナミビアの砂漠」はどうだったかといえば、はっきりとした答えは出せないままなのかもしれない。結論から言えば心に刺さったかというと、そこまででは無かったかなと思う。しかしながら、だからと言って面白くなかったかというとそうではない。荒れ果てた恋人との関係性は、うわーあるある!と過去の恋人との大喧嘩を思い出したり、ここにある生々しさはより普遍的な破滅とそこに沸き起こる感情の分からなさはひしひしと伝わってくる。
山中監督といえば昨年末にケリー・ライカートの「ファースト・カウ」の試写会で鑑賞後に中山監督が登壇していた。最初は「あみこ」の監督とは気づかずに発言を聞いていたのだけど、やはり細かいところまで発見をもたらしていて、シネフィル的な人なんだなと感じさせられた。パンフレットの寄稿にもスコリモフスキーの「早春」やゴダールの「ウィークエンド」などヨーロッパの監督のやけっぱちな作品が挙がっていて当然ながら親近感が湧き、本作の傍若無人なキャラクター造形は色々な過去の作品の集積でもあるのだなと、妙に納得した次第でもあった。主演の河合優実も「フランシス・ハ」を挙げていて、横スクロールで疾走するシーンは本作とのシンクロニシティを感じさせる(当然レオス・カラックスの「汚れた血」が血縁関係にある)。
予告のテンポの良さに対して、劇中の緩やかなテンポ感は面食らう人も多いと思う。しかしながら、河合優実の俳優としての存在感はアッパーさとダウナーさが入り混じった感覚のバランスの良さが際立ち、更生へと歩む「あんのこと」とは逆のベクトルにありながら(ラストは破綻するが)、徐々にこわれゆく女を演じる様は凄まじい(パンフレットの森さんの寄稿にあったカサヴェテスの引用はその通りだと思う)。
河合優実の冒頭のだらしない歩き方からどんなキャラクターなのかが一目でわかる演出の的格さや、タバコを吸う時の座った眼、タクシーから半身を乗り出して嘔吐するシーンなど、どうしようもない人物像だけれど、距離感はすごく近い。
中盤からの躁鬱/双極性障害を演じきる勢いと、極端にアンビバレントな感情の起伏はほんとに凄い。「あんのこと」やクドカンのドラマとは違った側面をこれでもかと前面に出している姿は惚れ惚れする。裸体を晒しながら(しょうもない事だが、脱毛について問う場面の後のシーンは見間違いかもしれないがノーパンだった?)何もかも曝け出すアティチュードは監督の作品性との親和性の高さがマックスにシンクロしていた。
暴力的なまでに自己を決断する様と、なよなよと勝手に他人像を作り出す男たちや社会を断罪する様は、痛烈な社会批判を含む。しかしながら、彼女の抱える社会的な正義が正しいのかといえばそうではないとしか言いようがない。不正義としてロリコンを挙げる彼女のもつ偏狭な正義感はかなり危うい。社会的な正義を独断で選ぶ時、昨今の悪とみなしたものは叩いても良いという風潮の考え方の一端がそこにあるようにも感じられた。彼女の中の道徳=社会悪という図式は、カウンセラーから何故それを選んで考えたのか?という質問は、ある種極端に突飛な考え方のひとつだと突きつけられた場面でもあったと感じる。SNSで誹謗中傷をポストする人を紐解くと、精神的な病や社会的な弱者であったという話を見聞きするが、ここでのセリフはそれとは無縁ではないと思う。
本作は恐らく男女で鑑賞後感が大きく異なる映画なのではないだろうか?男性が社会も肉体的にも負う関係性と、女性が担わされる負担の違いの狭間にいる関係性がひとつひとつに現れているようにも感じられる。中絶、官僚、経済的な視点など家父長制など描かれているものの端々から感じられる。さらに他責を重んじる自己責任へと連なる価値観が、カナの心を蝕んでいく。
女性が感じているものや、担わされているものを端的に表しているのが後半唐田えりかが演じる遠山ひかりの語りがものがっていた。ここで唐田えりかを起用して、あれらのセリフを語らせるフィクションと現実を交差させながら、焚き火をジャンプさせるシスターフッドな描写が本作の肝なのではないだろうか。
メタな視点をもちつつ、ここまで突き抜けた山中監督の次は一体何処へ?それが一番気になるところでもある。
ノイジーな音楽も素晴らしく、本作以上に痛烈な社会批判を盛り込んだ「あの子は貴族」でもサントラを担当した渡邊琢磨。毛羽だった感情を完全に音で表現していて、作品との寄り添い方は素晴らしい。この音響を味わえるのはやはり映画館ならではだと思う。