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【映画】シン・エヴァンゲリオン劇場版/庵野秀明 雑感と日本映画からの影響、90年代の思い出について

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※注意 内容に触れています。
考察は日本映画からの影響の部分のみで、それ以外はあまり触れていません。
タイトル:シン・エヴァンゲリオン劇場版
総監督:庵野秀明

祭りの終わり

とうとう祭りが終わった。
まだかまだかと先延ばしになった公開日の矢先のコロナ禍での延期から、さらに延期。4月公開くらいかなと思っていたら思いの外早く公開になり少し驚いきつつ、席取りの争奪が始まるのかという焦燥感が湧き起こる。結果初日の7時台の回は争奪だったけれど、席を取ったのは二日目だったので難なく取ることができた。
本当に上映するのかという疑念から、本当に終わるのかという疑念に変わりながら鑑賞したものの、しっかりと終わりを見せてくれた。
序と破は旧テレビ版を圧縮したボリュームだったので(破から大きく内容は異なるけれど)、矢継ぎ早に進む展開に話の密度は濃かったものの、Qに至っては全く異なる展開になっていた事から全二作に比べると話の密度が薄く感じてしまっていた。一気に時代が14年後に進み観客を突き放す強引な展開が、三作の中でも一番エヴァらしいともいえるのだけれど。旧シリーズとは全く違う地点に観客が立たされた感覚はありながらも、どこか物足りなさがあった。旧作の寄る辺のない気持ちの行き場には、懐かしい感覚と同時にあの閉塞感にまた包まれるのかという倦怠感はあった。
ラストの本作が2時間半というボリュームになるのは当然というか、何もかも全てを押し込むとなるとこの上映時間は、まあそうなるよなと。
前半パートのトウジやケンスケが暮らす村が描かれた理由は、東日本大震災以降の復興のような現実とオーバーラップさせた事だったのではないだろうか。Qでは一切出てこなかった市井の人々の生活を出した事で、14年という時間経過から旧友の成長も織り込まれている。それまでのエヴァ作品と違うのは、キャラクターが親になっていたり、自立していた事だった。ミサトがシンジと同じ14歳の子供を持つ親(結果的に自分の親やゲンドウと同じような立場になってしまっている)になっていたり、トウジも親になっている。シンジと精神年齢が倍に離れてしまったケンスケやトウジは、かつて自分たちが経験した14歳の頃を思い出しながらシンジに接している。後半がゲンドウに重点が置かれるのも、チルドレンたちやかつてのネルフスタッフの視点から親世代の視点が加わっている事の表れとも言える。前半の畑仕事など緩やかな場面は、展開としての緩さはあるもののネルフとヴィレの抗争とは違う所で暮らし戦う事の出来ない人々がいる事を描く事で、守るべきものとして必要な場面だったと思う。
後半の南極での戦いは、これでもかと言うほど色々なものが登場し旧劇場版以上に戦闘や精神世界が盛り込まれてる。空白の14年の説明も入り、些か説明過多な気もする(とはいえそこで起きてる事の説明は相変わらず殆ど無い)。

ATGや日本映画の色濃い影響

改めて強く感じたのが日本映画からの影響。
特撮展のセットと思わしき場面や、シンジたちが暮らしたマンションがセットだったりと、メタな演出はもろATGな雰囲気(「田園に死す」や「書を捨てよ町へ出よう」といった寺山修司や鈴木清順の「陽炎座」、長谷川和彦「青春の殺人者」)があって、相変わらずこの辺りの映画の影響が大きいのだなと感じさせられる。

ATGではないけど川島雄三の「しとやかな獣」辺りも影響源ではないかなと(極端な構図や白い階段の内面描写などかなりエヴァに近い感覚もある)。

過去に実際に川島作品では「幕末太陽傳」もフェイバリットにあげているし、岡本喜八の「日本のいちばん長い日」なんかもエヴァやシン・ゴジラの元になってることもよく知られている。庵野秀明の今までの作品にはかつての日本の実写映画、特に実相寺昭雄らの影響があったけれど、シン・ゴジラでの実写撮影を経由した本作は50〜70年代の日本映画の影響がさらに色濃くなっている。画面の大半を覆うシンジの肩越しのカメラワークなど、所謂アニメでは描かれない描写はかつての日本映画の影響と言える。庵野秀明という人はかつての日本映画の正統な後継者と考えると、アニメという枠組みを超えたヴィジョンをもつ作家なのではないか。今回それを今まで以上に感じさせられた。

岡本喜八との対談がアップされていて、実写へのカメラワークの憧れを語っている。まさにここでやりたいと思っていた事をやったのが、新劇以降だったと言える。

エヴァらしい引用の数々

元ネタがわかりやすいヤマト作戦や(ミサトがどう言った結末を迎えるのか示唆されている)、ゴルゴダなどの聖書引用、旧作同様のデビルマンラストの引用などエヴァらしい展開も多々あるけれど、それ以上に描きたかったのは、旧劇版で描ききれなかった人間模様なのは間違いない。利己的な理由で自分勝手に行動していたゲンドウに対する落とし前だったり、絶対的な他者として終着させてしまっていたアスカへのシンジの想いなど(ラストのアスカは大人の体になってプラグスーツが破れてる。大きくなればいいのにと言っていた胸も大きくなっている。)、旧作にあった孤独感と精神的な閉塞感に包まれる異様な雰囲気は本作では皆無と言っていいかもしれない。心がズタズタになったまま何もかもが空中を飛散して終わった旧劇のラストと比べれば、親の視点がツッコミどころはあれどちゃんと終着させた事が「物語の終わり」をある種納得できる形になっていた。
やはりゲンドウの心の内を余すことなく描いたのが大きかったと思う。賛否が分かれるところかもしれないけれど、シンジと同じ孤独を抱えていたことと、14歳の姿のゲンドウと対峙する所は中々感慨深いものがある。
ラストについては漫画版と近い形になっていて、漫画版では15歳になったシンジやアスカが高校受験に向かう場面で終わるのだけれど、本作では大人になったシンジとマリが手を繋いで駅を出る場面で終わる。駅のホームの反対側にはカヲルとレイがいて、アスカはいない。アスカはケンスケと結ばれるルートを辿ったからだと思うのだけれど、マリとシンジが一緒になっているのはこれも漫画版最終巻にあるオマケの話でマリがユイに想いを寄せていた事に繋がっていたのかもしれない。この辺りはTV版最終話のレイが転校してくるプロットを違った形で描いているように思える。旧作と異なるのはシンジが願ったのは、エヴァのない世界でTV版のタイトルにあったNeon Genesisに立ち返るというこれまたメタな構造になっている。第一話の戦闘シーンを思わせる場面があったり、旧作を含めて全て回収し切った労力は計り知れないと思う。巨大綾波がどこかチープさを感じさせたのは、97年当時だったらこうだったんじゃないかと邪推する(やたらリアルに描こうとするレイのど頭は笑ってしまった)。
押井守の「うる星やつら ビューティフルドリーマー」から始まり、ハルヒ、まどかマギカと00年代から10年代まで席巻したループ物に乗っかりながらも、庵野秀明の落とし前でもあるように感じる。自身を含め連鎖を断ち切るというのがテーマだったのは間違いない。

90年代当時の思い出

終わりに25年前の事を少しばかり。リアルタイムでTVシリーズは断片的に観ていた。というのも弟がハマっていて、面白いから観たら?と言われたけれど、その時はエヴァの造形がダンバインみたいだなって思った程度だった。多分に漏れずハマったのはその後の深夜にやっていた再放送を録画して観たときからだった。よく分からない聖書からの引用や、不思議なワードが並んでいて理解が追いつかない。大分後になってネット関係の仕事についてから見返した時、基幹や汎用と言ったワードが普段頻繁に使っている言葉だと認識した時えらく驚いた覚えがある。というのも95年といえばウィンドウズ95が発売された年でインターネット元年だった事。こう言ったワードはインターネットの世界に関わっていれば普通に出てくるものだけれど、それをこの時代に使っていたに驚愕した。同時代としては攻殻機動隊も十分に凄い作品ではあったものの、それ以上に後年触れても核になっているものが的を得ている所に古びないものがあるのだなと後になって気づかされる。
春エヴァ、夏エヴァは劇場で観たけれど、特に「Air/まごころを君に」の終幕して劇場が明るくなった時のあたりの騒めきは忘れられない。
90年代は宮崎勤事件以降、ネガティブな事、ネクラや内気と言ったものは全てマイナスとして捉えられていた。それらを全て内包したオタクというレッテルは、貼られたら最後、学校では爪弾きになる対象として後ろめたい存在だった。95年といえばオヤジギャルから派生したようなコギャル全盛期で、スクールカーストの上位にいるコギャルと下位のオタクでは接点が全くなかった。とはいえ、エヴァ以降その壁は徐々に崩れていった体感がある。00年代終わりころからその傾向があって、年下の凡そオタクには見えない(服装も気を使っていた)エヴァ好きのオタクの女友人と話していたら、しょこたんの登場で「これでもいいんだ」というきっかけになったという事だった。それまでアニメなどオタク文化は地味目な雰囲気を纏った人たちという固定概念があったものの、明らかに僕と同世代(1980年前後生まれ)とは違う価値観がそこにあるのに気付かされた。10年代以降のこの10年、ナードカルチャーがメインカルチャーに台頭しているのが明らかなように、90年代の空気がかえって異質なものに感じる。この辺りはアイドル不毛時代の90年代と、70〜80年代と00〜10年代の親和性があるようにも思える。70〜80年代のカルチャーを追っていくと、意外とヤンキーカルチャーにのちのオタクカルチャーが自然と内包されている。例を挙げれば漫画「軽井沢シンドローム」のようにヤンキーカルチャーど真ん中(とはいえ80年代中頃以降のヤンキー像とは少し異なる)に、ガンダムが入り込んでいた。江口寿史の漫画でもガンプラを手にしていた描写があったり、90年代の視点から考えれば普通の人々やヤンキーにも浸透していたのがよく分かる。宮崎勤事件以降、オタク像がエスタブリシュされてしまったがために、90年代はメインカルチャーから離れたファナティックな行動は単純にヤバイ人というレッテルにダイレクトに結びついていた。その最中に登場したのがエヴァンゲリオンというのは、潜在的にオタクカルチャーを内包していた人たちをあぶりだした現象だったのではないか。誰しも持つ内省的なオタクカルチャーに「これでもいいんだ」と突きつけた作品の一つがエヴァンゲリオンという社会現象だったように思う。今となってはナードカルチャーがオーバーグラウンド化してしまっているため、見え辛いところではあるかもしれない。
庵野秀明は新劇場版を通して、旧劇で打たれた楔を解き放とうと試みて描きなおしたのではないだろうか。

終わってみると、旧劇とは違ったうら寂しさを覚える。

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