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【映画】華氏451 Fahrenheit 451/フランソワ・トリュフォー

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タイトル:華氏451 Fahrenheit 451 1966年
監督:フランソワ・トリュフォー

今でもこの話にリアリティを感じるのは、権力者による検閲や規制と、テレビなどのメディアにどっぷり浸かることによる思考停止が生み出す恐怖だと思う。2020年現在の日本社会を取り巻く問題を考えても通じるものは多く、震災以降の自民党政権が行なってきた公文書改ざんや破棄などは、火なのかシュレッダーなのかの違いだけで、さほど違いは無い。世の中の言論を統制しようとする社会は、戦後にアメリカが恐怖に慄いていた共産主義から生まれた冷戦が終わっても、中国国内で起きている香港の問題など、こういった問題は今でも続いている。共和党が牛耳るアメリカのトランプ政権の排他的な雰囲気も、やってる事は共産主義的で、価値観が転覆してしまったリベラルの考えの軋轢が強くねじ曲がってしまっている。
日本でも「新聞記者」のような映画(若干誇張気味かなと思うところはあるけれど)を観ると権力を持った側の都合が良い社会の断片は見えてくる。

映画自体は60年代中盤以降の不条理ドラマのひとつで、SF嫌いなトリュフォーが監督したことで、安易な未来感は取り払われているけれど、印象的なモノレールや、冒頭捜索が入る建物のモダンな造りはシンプルに異世界を感じさせる(この辺りの近未来とディストピアの世界観を突き詰めたのがキューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」だった)。

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テレビドラマのプリズナーNo.6や、ゴダールの「アルファビル」が持つ無機質な未来感や、タルコフスキーの諸作にあるような自然をふんだんに使いながらも、近未来を描く世界観に通じている。不条理という点では同年公開されたアントニオーニの「欲望」もある。

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主人公モンターグが読む新聞は文字のないコミックになっていて、視覚的な情報はインスタグラムに置き換える事が出来るかもしれない。現代社会は文字よりも、視覚で訴えるもののウェイトが大きくなってきている。より簡便にダイレクトに五感を刺激するメディアの伸長をある種予見しているようにも思える。オープニングロールでスタッフの名前がモノローグで語られるのは、文字のない社会という所を視覚的に描いている(そう考えるとなんとも皮肉な出だしである)。

そういえば、先日観たイザベル・コイシェ「マイ・ブック・ショップ」の中で主人公が選書した中に本作の原作レイ・ブラッドベリー「華氏451」が登場する。「マイ・ブック・ショップ」では当時センセーショナルだったウラジミール・ナボコフの「ロリータ」を販売する話なのだけれど、「華氏451」では炎に包まれる書物の中に「ロリータ」が焼かれていた。恐らくコイシェはこの部分があったから、選書の中に「華氏451」を含ませたのは間違いないと思う。焼かれる本の中に「カイエ・デュ・シネマ」があったりと、中々抜かりのない演出もにくい。

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あと忘れてはいけないのが撮影監督のニコラス・ローグ。映画監督デビュー前に関わった作品ではあるものの、後の「パフォーマンス」や「ウォークアバウト」、「地球に落ちてきた男」に通じる映像美がすでにここにある。

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