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「増えすぎた人類減らす神のはからい」… 他(日経連載記事)/ 神話とSFの距離
扉絵は記事の中から転載。
日経新聞の神話連載?
人類が遭遇した天災について、神話を通じて紹介している。
記事を書かれた方はこちら。
内容をいくつか引用したい。
「マハーバーラタ」 増えすぎた人類減らす神のはからい
人類は太古の昔から争い合って生きてきた。それは今でも変わらないことは、現在の世界情勢を見ても明らかだ。
人間とは、争う生き物なのである。
神話もまたそれを証明する。戦争を描く神話は各地に多く残されている。叙事詩というジャンルがとくにそれに当たる。たとえばインドの叙事詩「マハーバーラタ」は、5人の主役の王子と、100人の敵役の王子たちの王位継承権をめぐる争いから、周辺の諸国を巻き込んだ大戦争に発展することを描く、巨大な戦争物語である。
(中略)
「マハーバーラタ」とギリシアのトロイ圏伝承には似たモチーフが見つかる。
インドでもギリシアでも、戦争の発端は「増えすぎた人類の重荷」であった。
(中略)
現代に翻って考えてみると、戦争は領地の取り合いである。人間が生きていくための土地を広げることが多く戦争の原因となる。人類の増加とそれに伴う神話の戦争と、現代の戦争は根っこのところでつながっているように思われる。
われわれは何をなすべきか。これは難しい問題であるが、人間とは争うものである、とまず認識することが重要なのではないか。それを肝に銘じた上で、社会全体で戦争を回避していく。神話をあたかも反面教師のようにして、争いを何とか避けて生きていく。それがわれわれの時代に課された課題であるように思う。
「ノアの方舟」の原点 大洪水が世界をリセットする
人類にとって、おそらく普遍的に恐怖をもたらす自然現象の一つに、洪水がある。洪水の神話は世界各地にある。くまなくある、というわけではなく、ロシアを除くヨーロッパと、アフリカは洪水神話が比較的薄い。しかしそれ以外の地域には実に多く見つかる。
古い洪水神話として、メソポタミアにウトナピシュティムという賢人が経験した洪水の話がある。
(中略)
ノアの話は、メソポタミアの神話から影響を受けて成立したことが確実とされている。
(中略)
メソポタミアの洪水神話とノアの方舟の話の類似が分かったのは、そう古い時代ではなかった。1872年、若いアッシリア学者のジョージ・スミスという人が、メソポタミアの古い粘土板に洪水神話が記されていることを発見した。
(中略)
当時、大変なことであった。なぜなら「聖書」には真実が記されていると考えられていたからだ。それが、真実などではなく、メソポタミアから借りてきた話であることがはっきりと分かってしまった。
神話は基本的に、教訓を残すものではない。倫理を説くものでもなく、道徳を教えるものでもない。ただ、生死にかかわる洪水のような恐ろしい出来事を、人間は神話という形式に託して残した。人類は、物語の形にすることで、その恐怖を相対化しようとしたのかもしれない。そこから何を受け取るかは、われわれ次第だ。
誰が地震を引き起こすのか 大地の底にいる聖なるもの
地震と連動して起こる津波も神話に残されている。沖縄にヨナタマと呼ばれるものがおり、顔は人間で身体は魚、よくものを言う。漁師がこれを釣りあげて食べようとすると、ヨナタマが助けを求める。すると大津波が起こり、島は跡形もなく水没した。
津波は現実にも大きな傷痕を残した。東日本大震災の記憶はいまだ新しい。この時の津波で多くの人が命を落とした。それは、怪談となって今も生き続けている。東北学院大学の学生だった工藤優花によると、石巻や気仙沼のタクシードライバーに取材すると、津波で亡くなった霊を乗せたことがあるという話が多く採集できた。
私の考えでは、これは「現代の神話」である。怪談というのが、現代の神話としての役割をもつのだと思う。怪談を語り聴く時、その場には「聖性」が宿る。神話の要件がまさに「聖性」だ。聖なる物語、それを神話という。怪談の「恐れ」は「畏れ」だ。古代の人々が神々に抱いた畏怖を、現代の人々は怪談を聴くことで抱く。
われわれ人類はおそらく聖性とともに生きてきた。それなしには人間は人間たり得ない。ただしその現れ方は様々で、宗教であったり神話であったり、あるいは現代ではスピリチュアルというものもある。怪談もまたそのような、現代の聖なる物語、すなわち神話なのだ。
われわれ人類は、2020年から今日まで、未曽有の病の災害を体験することとなった。新型コロナウイルスの大流行である。強い感染力を持ち、かつ重い症状をもたらすこの病は、多くの人を死に至らしめ、後遺症で多くの人が苦しんでいる。当時は日常が一変し、すべてが非日常となった。
そのコロナ禍において流行したのが、「アマビエ」と呼ばれる一種の妖怪であった。図にあるような奇妙な姿をしているが、その姿を絵にして見せれば、病を免れ長寿を得るということで、はじめは江戸期に現れたのだが、これが現代に蘇(よみがえ)った。アマビエの姿が描かれたイラストがSNS上に次々とアップされ、ほとんどお祭りのような現象を引き起こした。このアマビエ流行の現象は「流行り神」として分析できると主張されることもある。
病そのものの神話は少ないのであるが、医療の神というのはいる。ギリシアではアスクレピオスである。アポロンと人間のコロニスの子で、優れた医療の術を発揮し病人を救ったばかりか、死人を生き返らせてしまい、これに怒ったゼウスに殺されたが、アポロンの嘆願で生き返り、神々の仲間入りをした。医神として、自ら死と再生を経験している。
そのことをよく表した作品が小野不由美の「残穢」である。怪異が怪異を呼び、複数の怪異が同じ地に堆積する。また鈴木光司の「リング」も疫病との関連が深いホラー作品である。
神話を「お伽話」として捉えずに「過去にあった何か」「知らないところで起こった何か」と認識した方が、視野が広くなるような気がする。
SF小説は「これからどこかで起きる何か」と考えれば、これも神話と受け取れなくもない。
「SF小説家」「神話の語り部」
この2つの職種、遠いようで近いものなのかもしれない。
【以下、続けば追加】
2024年5月30日 update
石のように死ぬか、バナナのように死ぬか 人間の宿命
2つの「生」のあり方がここでは対立している。1つは石のように、個として永久不滅な「生」だ。もう1つは、個としては死なねばならない、しかし子をもうけることで、「種」として存続するというあり方だ。人間は後者の運命を割り当てられた。だから死なねばならぬ。しかし子を持つことができる。
この2つの「生」のあり方は、両立することはない。石のように永久不滅で、バナナのように子を産むことができたら、人間が増えすぎて世界の秩序が成り立たないからだ。どちらか、なのである。このように神話は時に高度に論理的である。
インド最古の文献「リグヴェーダ」では、死者は死の神ヤマの元へ行き、天界で神々とともに楽しく過ごすのだという。これが、ブラーフマナと呼ばれる文献群、次にウパニシャッドと呼ばれる文献群を経て、次第に輪廻の説が練りあがっていく。人間は今世の行い、「カルマ」に応じて来世の姿が決定される。善い行いをした者は神々や優れた人間などに転生し、悪行をなした者は劣った動物などに生まれ変わる。その輪廻の輪からいかにして抜け出し宇宙の最高存在と合一するか、それがインドの思想では最高に重要なことと考えられていた。
(中略)
現代のわれわれは、あるいは、どこかで転生というものを気楽に受け入れたがっている。しかしそのあり方は、インドのそれとは異なっている。死後の来世があることに希望を見いだすわれわれとは異なり、生きることそのものに苦難を伴うと感じるインドにおいて、輪廻転生は重たい生命の楔(くさび)であったからだ。
MOH