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夏の合宿所【避暑地へ】

 翌日正午前、ユリさんが合宿所に現れた。
「暑いですぅ。死にそう」
 背中に大きなノースフェイスのバックパックスクエアボックスを背負っている。このバッグはいつから高校生の制服ならぬ制鞄になったのだろう。容量が大きくて便利そうなのは分かるけど。

 首筋の汗をハンドタオルで拭いながらホールに入って来たユリさんの服装は、濃いブルーのTシャツに白のショートパンツ。大きなストローハットで顔をあおぎながらホールに入って来た足元は、ストラップ付コルク調サンダル。空色のペディキュアが目を惹く。
 健康的な女子高校生の夏服姿。リュックを背負っているのでTシャツ生地の胸元に緊張感が漂っている。ユリさんが初めて合宿所に来た時の彼女の観察眼は正しかったようだ。ユリさんは彼女の2才年下だが、慎ましやかな彼女のそれと比べてユリさんの胸元は豊か。でもそれを口にするのはあらゆる意味で危険。
 無意識にユリさんの胸元へ視線が行き、彼女が僕の視線を追っているのに気が付いた。さりげなく視線をずらし、陽が眩しい窓の外に目を向ける。

「ユリちゃん、ちょうど良かったわ。お昼を作ったところなの、一緒に食べましょう。叔父さんは昨日あれから出掛けたままだから、戻って来たら直ぐに出発すると思うの」
 一瞬、眉間が険しく見えた彼女は、何事もなかったかのようにユリさんに声を掛ける。

 彼女に促され、僕の正面に彼女が、その隣にユリさんがテーブルにつくと、いつもの勝負飯。
 「銀座」「骨董通り」「赤坂」に続き、今回も彼女は何かと勝負をするつもりなのか?
 アレッ? 今までとメニューが微妙に違う。
 おにぎり、卵焼き、御御御付けは今まで通りだが、それと、お稲荷さん?
 6月のお狐さまは、祓われたはずだけど…

「美味しい! 暑くても、この御御御付けを頂くとサッパリします。お稲荷さんに生姜が入っていて甘過ぎず、幾らでも食べられそう」
 ユリさんは小柄だけど食欲は旺盛。17歳の育ち盛り。栄養は身長には向かわず、他のところへ行っているのかも知れない。冗談でも口にすると危ないから黙っておこう。視線にも気を付けなければ。
「ユリちゃんから『美味しい』を貰えて良かったわ。お稲荷さんは作り過ぎたからタッパーに入れて持って行くの。叔父さんのクルマが古いから、途中で止まった時の非常食」
 どこの避暑地へ行くのか聞いていないけど、マトモに辿り着かないことが前提なの?
 彼女の美味しい勝負飯を食べ終えても叔父さんは戻って来ず、彼女とユリさんは(涼を求めて)5階に上がり、僕は叔父さんを待ちながらホールのソファで MacBook を開いたまま寝落ちした。



「オイ! 出掛けるぞ」
 頭の上から降ってくる声で目が覚めた。
 目を開けるとホールがバタバタしている。
 うだるような暑さのホールでうたた寝をして汗びっしょり。革張りのソファに張り付いたシャツを背もたれから引き剥がして立ち上がると、彼女とユリさんは玄関を出るところ。叔父さんはキッチンで何かを探している。

 寝ている間に叔父さんが帰って来て、他のみんなは出発の準備をしている。
 僕も東京に来る時に使ったキャスターバッグを転がして玄関を出ると、彼女とユリさんがボルボの開いたテールゲートの前で難しい顔をしながら立っている。僕が近づくと彼女が荷室を指差す。
「エムくん、荷物入らないよ」
 叔父さんのクルマは古いとはいえボルボのステーションワゴン。「広い荷室に入るはず」と思い彼女の横に立つと、目の前のカーゴエリアは荷物でいっぱい。
 叔父さんは何を詰め込んだのだろう。
 ユリさんが背負ってきたバッグは座席に置くとしても、彼女と僕のキャスターバッグはどこにも入らない。
 僕たち3人がどうしたものかと、キツい日差しの下で立ち尽くしていると、叔父さんが大きな箱を持って玄関から現れた。
 ダンボール箱を大事そうにクルマの脇に置き、僕たちの方を向いて不思議そうな顔をする。
「どうした? 荷物をサッサと積み込んで出発するぞ」
「バッグを入れる場所がないの」彼女が自分のキャスターバッグを指さす。
「そんなアホな。ステーションワゴンだぞ… ありゃ? いっぱいだ。誰がこんなに詰め込んだんだ?」
 叔父さんは積荷の一つをカバーの上から手で触り、ゆっくりと頷く。
「なるほどー、あいつらか… 仕方ないな。バッグは屋根に積むからエムくん、ルーフキャリアを取ってきてくれる?」
 叔父さんに言われた通り1階の納戸にスーリーのキャリアを取りに行き、クルマに取り付け荷物を括り付けて、叔父さんの運転で僕が助手席、彼女とユリさんが後部座席に座りようやく出発。

 都心は道路渋滞で時刻は午後3時過ぎ。今日中に目的地に着けるのかどうか。
「叔父さん、うしろに何を積んでいるの?」彼女が後部座席まで迫っている荷物を手でパンパンと叩きながら聞いてくる。それは僕も知りたい。
「オイオイ、叩いたりしたら危ないぞ。触らないこと」バックミラーで彼女を見ながら叔父さんは注意をするが、肝心なことには答えてくれない。
「叔父さん、まさか爆弾とか積んでいないよね?」彼女は慌てて手を引っ込め、前の座席に乗り出してくる。
「そんな物騒なものは積んでないぞ。でも触るなよ」
 後ろの荷物を気にしながら振り返る彼女の姿勢を糺すように、叔父さんは古いボルボのアクセルを踏みつけ、首都高速の入口を駆け上がった。

 クルマが高速道路に入ってからは渋滞もなく関越自動車道路を北上する。8月とはいえ、お盆を過ぎ平日の夕方は空いていた。
 嵐山パーキングエリアで途中休憩した時、彼女が叔父さんに行き先を尋ねるが「着いてからのお楽しみ」としか答えない。そのあと藤岡JCTから上信越自動車道路へ入り、碓井軽井沢インターを下りると午後6時を回っていた。
「叔父さん、もしかして軽井沢に泊まるの?(叔父さん「あぁ」)やったー! さすが編集長。いにしえから文豪たちにゆかりのある避暑地よ。有島武郎、室生犀星、芥川龍之介、川端康成、堀辰雄、最近だと遠藤周作かな。これで創作意欲が湧かない方がおかしいわ」
 後部座席で半分寝ていた彼女は急に元気になり、隣のユリさんも彼女が挙げる文豪の名前に頷いていた。
 みんな明治時代の小説家だけど、二人ともよくご存知。彼女は遠藤周作を「最近」と言っていたけど作品はどれも昭和の時代。小説家になるためには昔の小説も読まなければならないのか。

(つづく)