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『遥かなる海辺より』1.プロローグ
大陸の北端に位置する伯爵領スノーフィールド。1年の半分にも達する冬にも終わりが近づきつつあったある夜、この都市を警護する重鎮ノースグリーン卿の屋敷で祝いの席が開かれた。卿の愛娘セシリアの16歳の誕生日を祝したものだった。
その目覚しい功績により爵位を授けられたエドワード・ノースグリーン卿だったが、貴族に列せられたことに驕ることなど一切なく、実質を尊ぶ暮らしぶりに変わりはなかった。母を亡くした
『遥かなる海辺より』2-1.巻の1
親愛なるアラン。
この手紙が届くころ、スノーフィールドは長い冬を迎えているはずだ。首尾はどうなったかと、さぞ気をもんでおられることと思う。その点をまずおわびしたい。
私は今ルードの村にいる。そろそろ夏が終わりに近づいているところだ。
ルードの村の人魚には会えた。その歌を書き留めることもできた。同封の楽譜がその写しだ。
けれど、これは影にすぎない。私が耳にしたのはとてもこんなもので
『遥かなる海辺より』2-2.巻の2
その村はルードという名前で、大陸南岸の漁の盛んな地域にあるという。その村の小さな入り江に二百年ほど前から人魚が棲みつき、以来ルードは豊漁で栄え、今や周辺の漁村から大漁祈願に詣でる人々も出ているという話だった。しかもその人魚は二百年もの間、全く年をとる様子がないのだと。
だが旅人の話には肝心の部分が抜けていた。人魚の歌に関する話が全く含まれていなかったのだ。
古来、人魚といえば惑わしの歌で
『遥かなる海辺より』2-3.巻の3
ルードの村が見えたとき、季節はすでに夏を迎えていた。北国に生まれ育った私には、天頂から振りそそぐ痛いほどの日差しは体験したことがないものだったが、海の色の鮮やかさもそれまで想像すらしたことのないものだった。冬ともなれば流氷に埋め尽くされる曇り空の下の鈍色をした故郷の海と、青空の色をさらに深めた紺碧のこの南の海が、同じ水でつながっているとはとても思えなかった。暗鬱な北の海のほうが神秘的なものを秘め
もっとみる『遥かなる海辺より』2-4.巻の4
「ルードの救い主よ。潮を告げる者よ。相見えたるは我が喜び。数多の喜びと悲しみを共にする我らより夕べの挨拶を」
村長アギが呼びかけると、人魚は物思いから覚めたように頭を巡らせた。大きな赤い瞳が枯れ木のような老人を認めた。
そのときの人魚の表情をなんと形容すればいいだろう。とても柔和な親愛の表情でありながら、それは喜びと同じだけ、確かに悲しみにも彩られていたのだった。胸を突かれる心地の私の耳に幻
『遥かなる海辺より』2-5.巻の5
その後なぜルードに留まることができたのか、自分でも不思議に思う。今から思えば、私の動機の根幹は成功や名声を求めることにあった。そのための足掛かりになる技術を期待して、伝説に名高い人魚の歌に手を伸ばしたはずだった。
だがその歌はいまだ神秘の彼方に置かれたまま、その声でさえ人の身で近づけるとはとても思えぬ高みにあった。まねることすらできそうにないのだから当初の目的が果たせる見込みはなく、空しく帰国
『遥かなる海辺より』2-6.巻の6
それは私にとって思いもよらないことだった。なぜなら人魚の歌にまつわる言い伝えは、昔から惑わされた人間が迫る危険すら無視して聴き惚れるほど絶美のものとされており、私も誘惑の歌だろうと思いこそすれ、憂いや嘆きに満ちた挽歌など想像もしていなかったから。
だが私がそういうと、人魚はさらに驚いた様子で応えた。自分たちが歌うのは誘惑の歌などではないし、そもそも人間に向けて歌っているわけでもないと。いわれ
『遥かなる海辺より』2-7.巻の7
人魚の話を聞いた私の胸に宿ったのは、彼女の歌をもっとその心にふさわしいものにできないかとの思いであり、願いだった。滅びの定めに置かれたことで彼らの歌が破滅をもたらす挽歌と化したのなら、その歌をいま一度、より幸せなものにできないだろうかと思ったのだ。出会うこともできぬ仲間に空しく呼びかける歌ではなく、奇しき縁で結ばれた者たちに向けた歌であってもいいのではないか。挽歌を歌うしかない生き様をよしとせず
もっとみる『遥かなる海辺より』2-8.巻の8
こうして私は人魚に会い、その歌を書き留めることができた。それが昨夜から今朝にかけてのことだったが、それまでの長かった日々も、こうして振り返ると同じ一夜の夢での出来事だったとさえ思えてくるほどだ。
それでもこの手紙を書くことで、定まらなかった思いや考えをずいぶん整理できたように思う。読みにくい手紙につきあわせてしまい、すまなかったとは思うが。
とにかくこの楽譜は急いで送りたいと思う。あなた
『遥かなる海辺より』2-9.巻の9
人魚の歌を聴いたあと、人々は久しぶりの漁に出た。人魚も波間に滑り込むと、舟を漁場へ導いていくのだった。彼女が「潮を告げる者」と呼ばれていたことを私は思い出した。
彼女をそう呼んでいた老いたる村長は隣で舟々を見送っていたが、やがて私に向き直ると事の次第を尋ねた。けれど私の話に驚くでもなく、むしろ感慨深げな様子でさえあった。それで私も思い至った。村長アギは彼女の話を聞いたことがあったのではないか
『遥かなる海辺より』3.エピローグ
ホワイトクリフ卿が手記を読み終えると、大広間にはなんともいえぬ沈痛な空気が流れた。その場の誰もが知っていた。人魚のその後の運命を、ルヴァーンの願いが叶わなかったことを。
彼らにその顛末を告げたのは一人の尼僧だった。ラルダという名のその尼僧は人魚を救おうとしたが間にあわず、恐るべき破滅の唯一の生き証人となってしまったのだった。
人魚の噂はしだいに内陸にも伝わっていった。そして漁らぬ民の間では