『遥かなる海辺より』2-4.巻の4

「ルードの救い主よ。潮を告げる者よ。相見えたるは我が喜び。数多の喜びと悲しみを共にする我らより夕べの挨拶を」

 村長アギが呼びかけると、人魚は物思いから覚めたように頭を巡らせた。大きな赤い瞳が枯れ木のような老人を認めた。
 そのときの人魚の表情をなんと形容すればいいだろう。とても柔和な親愛の表情でありながら、それは喜びと同じだけ、確かに悲しみにも彩られていたのだった。胸を突かれる心地の私の耳に幻妙としか言いようのない声が届いた。

「最初の者らの最後の子よ。ここに見えし喜びを留めるすべなき身ぞ哀し」

 古めかしい韻をふむ言い回しで儀礼的な呼びかけに応じたその声は、鈴を震わせたような麗妙な響きを帯びていた。いくつかの声が重なりあうとき、稀に聞かれるものにそれは似ていた。
 幻惑するようなその響きに、私はたちまち魅せられた。そして思った。これほどの声を持つ存在が歌わぬはずなどありはしないと。それはもはや確信だった。

 だが私のそんな思いになどおかまいなく、老いたる村長は私のことを紹介した。

「これなる者はルヴァーンと申す遠つ国の楽士じゃ。今宵はこの者の調べに耳を傾け、憂いに沈む心を慰めたまえ」

 妖魔の視線がこちらを向き、私はどぎまぎしながら見返した。そんな私たちを村長アギはしばし見つめたあと、再び彼に視線を戻した人魚に一礼し去っていった。杖にすがりおぼつかぬ足どりで去る後ろ姿を、海魔のまなざしがどこまでも追っていった。

 こうして私たちは取り残された。

 人魚の歌を聴きにきた私が、人魚に向けて演奏することになるとは! ましてかくも妙なる声の持ち主に、人の身でなにを聞かせられようか。けれど、できることはそれしかなかった。彼女の憂いを払わぬ限り、なんの進展も見込めなかったのだから。

 憂いに染められた上に気後れする心を無理やり振るい立たせながら、私はひたすら笛を吹いた。少しでも心の晴れそうな明るい曲を片端から選んだ。落日が空と海を真紅に染め、やがて白銀の粉を散らしたような星空に変じる中、私は笛を繰り続けた。

 人魚は喜んでくれたようだった。微笑みさえ浮かべじっと耳を傾けてくれていた。でもそれは、私の音楽が心に届いたからではなく、私の行い自体に寄せられた好意に相違なかった。私の心にさえ忍び寄る憂いは、薄らぐ気配すらなかったのだから。

 永遠に明けぬかとさえ思えた空が白み始めたとき、ありがとうの一言を残し麗しき海魔は波間に滑り込んでいった。そのたった一声に、私は呆然と立ち尽くすばかりだった。私が夜通し吹いた調べをすべて集めても、その声一つの美しさにかなわないことがあまりにも明らかだったから。こうしてルードでの私の日々は、絶望の涙で始まったのだった。


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