『遥かなる海辺より』2-2.巻の2

 その村はルードという名前で、大陸南岸の漁の盛んな地域にあるという。その村の小さな入り江に二百年ほど前から人魚が棲みつき、以来ルードは豊漁で栄え、今や周辺の漁村から大漁祈願に詣でる人々も出ているという話だった。しかもその人魚は二百年もの間、全く年をとる様子がないのだと。

 だが旅人の話には肝心の部分が抜けていた。人魚の歌に関する話が全く含まれていなかったのだ。

 古来、人魚といえば惑わしの歌で舟乗りを破滅させる言い伝えで有名だ。私が人魚という言葉を耳にしたとき、真先に頭に浮かんだのもそのことだった。いかなる舟乗りも漕ぐのを忘れ、破滅を目の前にただ聴き入るばかりの魅了の歌とはいかなるものか。その秘密に迫ることができたとしたら!

 私は旅人に食い下がった。相手が当惑するほど何度も尋ねた。それでも歌に関する話は聞き出せなかった。そもそも彼は自分でルードの村へ行ったのではなく、別の者から伝え聞いたにすぎなかった。話した者も聞いた者も音楽に特別関心があったわけではなく、何百年も年をとらぬ麗しき妖魔の姿を興味本意に語らっただけだったのだ。青みを帯びた鱗に身を包み、赤い背びれと緑の髪を持つとかいうその姿を。ああ、なんたることだろう!

 中央図書館の文献にも人魚の歌について具体的に触れたものはなかった。変わりばえしない昔話がいくつか見つかっただけで、ルードの村の人魚が歌ったという記述自体がどこにもなかった。わかったのはその人魚が津波の到来を告げたことで人々が難を逃れ、感謝した村人たちに迎えられ入り江に棲みついたという顛末だけだった。二百年もたっているにもかかわらず、ルードの村の人魚が歌ったことを示す痕跡は何一つ残されていないのだ。その歌が言い伝えどおりの、いや、それこそ鱗一枚ほどにも魅力あるものだとしたら、記録に残されないとはとても思えなかった。

 私の心は決まった。なにがなんでもその人魚に会って、自分で確かめなければならない。惑わしの歌が現実のものなのか、それとも単なる言い伝えに留まるものなのか。もし現実のものなら、その秘密を解明するのは私でなければならないし、たとえ解明できずとも人魚の歌を書き写し持ち帰った最初の人間になることはできる。それだけでも私の名は後世に残るだろう。

 アラン、あなたは驚いているはずだ。確かに私はあなたに人魚の歌のことを話し、ルードへ行かせてほしいと願い出た。そして興味を引かれたあなたが願いを聞き届けてくれたからこそ、私は今ここで手紙を書いている。でもこの手紙に書いていることは、あなたが知らなかった話のはずだから。

 私は大恩あるあなたに嘘をついた。ルードの村の人魚が歌った形跡がないことを隠したばかりか、他の誰かに先を超されてはならないとたきつけさえしたのだから。人魚の歌が実在しないかもしれないことを正直に話せば、そんなあやふやなものにあなたはお金を出してくれないかもしれない。それを私は恐れたのだ。

 本当にすまないことをした。縁を切られてもしかたがないと思う。だがこれだけはわかってほしい。私はそれほど必死だった。そこまで私は追いつめられていたのだ。


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