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虫医

 私にとって初めての患者は、クロアゲハの幼虫だった。
当時私は9歳ぐらいだったと思う。とても暑い夏の日、庭にある金柑の木で、葉にしがみつくのもやっとな状態のそいつを見つけた。


 その患者には抵抗する気力も無かった。緑色の柔らかな体をそっとつまみ上げても臭角を出さず、手のひらに乗せると、腹脚に力が入らないためコロッと横になってしまった。しかも体がとても熱い。
私はすぐにその患者を家の中に運び、台所のひんやりとしたステンレスの上に乗せた。霧吹きで水をかけても反応は無い。

しかし、30分ほど経った頃だろうか。患者はヒョコヒョコと頭をもたげ、ゆっくりと腹脚を動かして前進し始めた。
再び手のひらに乗せてみると、体温はすっかり下がっていた。まだ腹脚の力は弱いが、ちゃんと吸盤の様に吸い付いてくる。
私は患者を虫かごに入れ、金柑の木から厳選したやわらかい葉をそばに置いて、念のため一晩入院させた。

 翌朝、患者はかなり回復していた。入れておいた葉には齧り痕があり、糞もいくつか落ちていた。つかまる力も強い。
私は患者を庭に帰し、金柑の枝にしっかりつかまって進んでゆく姿を見届けた。


 その後も私は様々な患者と出会った。片足の取れたバッタ、殻の割れたカタツムリ、翅の破れた蝶。
彼らは助けなんて求めちゃいないかもしれない。しかし、彼らは私にとって患者である以前に友達なのだ。
学校に友達はいないが、庭には人間以外の友達がたくさんいる。たとえ人間の、私のわがままであろうと、友達を救うのは当然だった。

彼らを知るために、図書館で虫の体について勉強した。本を借りては図鑑をノートに丸写しした。獣医はいるのになぜ虫の医者はいないのか、と不思議に思ったものだ。


 人間を診る医者になりたいと思ったのは何年も先だ。そして、学力も金も無いどころか病気の自分は医者になれないと悟った。
病院で治療を受けることもできなかったので、尚更だった。

今でこそ街のあちこちに、メンタルクリニック、心療内科、精神科、など様々な看板があり、入りにくさも軽減されているが、当時は酷かった。
精神科はキ○ガイ病院と呼ばれていたし、あそこに入ったら最後だと言う人も多く、とにかく恐ろしい場所とされていた。
世間から完全に隔離され、人里離れた鬱蒼とした暗い森の中、大きな錠前がついた開かずの門があり、病棟からは叫び声が聞こえる。そんなおどろおどろしいイメージしか抱けなかった。

実際、隣町には心霊スポットのように有名な精神病院があり、木々に囲まれた建物は見えなかった。夜中に叫び声を聞いた、時々患者が脱走して近くのお寺に逃げてくる、という話も聞いた。

そんな所に自ら行きたいと言うなど、とんでもないことだったのだ。