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廃墟メシ

 その柿は、あと少しで指先が届きそうな距離に実っていた。
何度かジャンプするも失敗。私はこんなに跳べないのかと、己の身体能力の低さを突きつけられる。

雑草の生い茂る中に腰を下ろして見上げると、そこに太陽は無かった。まだ午後三時だというのに薄暗く、廃墟と化したこの四棟の社宅を冷やしている。全てが灰色の世界だからこそ、オレンジ色の柿はより魅力的に映った。

ふと、いつかテレビで観たマサイ族の垂直ジャンプを思い出した。彼らは最も高く跳べる者を尊敬するらしい。
私はマサイではない。私は私のやり方で、あの柿を手に入れなければ。

登れそうにない柿の木、枝をたぐり寄せることもできない。周囲を見回しても台になるような物はなく、色褪せたバケツは残念なことに割れていた。
だが、諦めるわけにはいかない。今夜は蕪と柿でなますを作りたいのだ。

 私は木の横にある錆びた緑色のフェンスに足をかけた。思ったよりも大きな音がガシャンと響き、一瞬体がビクッとする。いつもそんな自分が嫌でたまらない。勝手に反応する脳と体。これじゃあ臆病者みたいじゃないか。
素早くフェンスを半分ほど登ると、もう柿は目の前だった。私は右手を伸ばし、ついに柿をつかんだ。

ひんやりと冷たく硬い柿。くるくる回して枝から捻り切り、上着のポケットに入れた。その少し上にぶら下がっている柿にも手が届いたので、同じように捻り切る。
なんてラッキーなんだ。夕飯の材料だけでなく、これから食べる遅い朝食まで手に入れた。

草むらに飛び降り、さっそく柿を服の裾で拭いて一齧りした。カリッと音が鳴り、口の中にほのかな甘味が広がる。秋の味覚、それも採れたての柿。なんて贅沢な朝食なのだろう。

 次のターゲットは銀杏だ。
廃墟横のイチョウ並木へ向かうと、そこには息を飲むほど素晴らしい景色が広がっていた。先週は一粒も落ちていなかったのに、もう地面が見えぬほどの銀杏で埋め尽くされ、見事な橙色の絨毯が出来上がっているではないか。
思わず「わぁ!これは凄いや!」と声が出た。自分の目が輝いているのを感じた。大丈夫、私はまだ生きている。

銀杏を直接触るとかぶれるため、ゴム手袋をはめた。手袋越しにもよく熟れた果肉の柔らかさが伝わってくる。少し陰嚢に似てるなと思った。
指先で軽く押して取り出した硬い種を、次々とビニール袋に入れてゆく。あっという間にビニール袋はいっぱいになり、ずっしりとした重みが私を満足させた。

 公園に移動し、種を洗った。少量ずつネットに入れて水道の水をかけながらガチャガチャと擦りあわせると、表面に残っていた果肉が取れてつるつるになった。靴底にも果肉がへばりついていたので、何度も砂で擦りながらよく洗った。

 家に帰るとベランダにダンボールを広げ、まだ濡れている大量の種を並べた。約一週間、乾燥と消毒のため日光にさらせば完成だ。
やはり太陽は偉大である。神と崇められるのも納得だ。

 これは戦時中の話でもなければ、どこか遠い国の話でもない。まさに現代の話だ。何の不自由も無く幸せに暮らしていそうな、どこにでもいそうな、ある一人の主婦の話である。
単なる節約上手な主婦、それで話が済めば何の問題もないだろう。
だが、私には他にいくつもの顔があった。