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読書日記#5『猫語の教科書』ーー誇りもヒゲも一ミリだって失わない処世術

昔、ちょっとだけ棚貸しの古本屋さんで棚を借りていたことがあり、そこの棚主のひとりが、自分の棚に『猫語の教科書』を並べていた。ただ、本の表紙に付箋が貼ってあり、「お気にいりの本なので、お店で読んでいってください」とあって、購入を許していなかった。買ってほしくはないけれど、棚に並べてまでもおすすめしたい本なのか、と印象に残った。そして、昨年十二月、高松にある古本屋YOMSの本棚にひっそりとあったそれを見つけたとき、彼女のメモ書きを思い出し、思わずわたしは手にとった。

『猫語の教科書』のオリジナル原稿は、ある編集者の家の前に置かれていたという。だれが書いたのか実際のところ分からないうえ、判読不可能と思われたが、なんとかアメリカの小説家ポール・ギャリコが文章の解読に成功して、この本が出来上がったそうだ。彼は、オリジナル原稿を書いたのは猫ではないか、と疑っていた。そんなばかな、と疑う読者のために、彼は動かぬ証拠まで用意している。彼が証拠として提示した写真には、タイプライターを巧みに操っている猫の姿があった。

ポール・ギャリコ、灰島かり訳『猫語の教科書』(ちくま文庫、2013年)

もういらぬ疑いなど捨て、猫の書を楽しもう、とわたしは思った。この本は、端的にいえば、猫が書いた猫のための本だった。いかにして猫は家猫の座におさまることができるのか、その秘密が書かれている。たとえば、語り手の猫は、人間の男性に取り入る方法を事細かに説明しているのだ(猫いわく、女性より、男性のほうが操りやすいとのこと)。あの独立独歩の猫がそんな人間にこびを売るようなプライドのないことをするなんて、と思う読者もいるかもしれないが、そうではない。猫はこう続けている。

そんなことをしたら、独立心はどうなるの、とつぶやく猫もいるかもしれませんね。でも何の心配もいらないわ。男性が自分こそ主人だと思っているから、それにつきあってあげるだけのこと。そのために誇りもヒゲも一ミリだって失うわけではありません。

p. 48 ポール・ギャリコ、灰島かり訳『猫語の教科書』(ちくま文庫、2013年)

くだらない上司のいうことをきいて、自分の人生を棒に振っていいのか、と思っているそこのあなたも、この本を読むことで、違う考え方ができるようになるだろう。(……なんてね)

ところで、この本を読めば、猫に気に入られる術を身に着けられるのではないかと考えているわたしのような読者はいないだろうか。残念ながら、猫は人間ほど単純で愚かな生き物ではないようだ。わたしは、通勤電車でこの本を読んでいたのだが、電車を降りて自宅に帰る道すがらに一匹の猫とすれ違った。それはとても美しい牛柄のノラ猫だった。まだ途中とはいえ『猫語の教科書』を読んでいたわたしは、思わず、猫にこびを売った。今なら違ったコミュニケーションをとれるのではないかと淡い期待をしたのだ。だが、牛柄の猫はわたしに背中を向けたまま、一度も振り返ることなく、堂々とした後ろ姿で去っていった。

小柄ながら、堂々とした後ろ姿で去っていく
戦いの跡なのか、ウサギのようなしっぽをしていた

ノラ猫さんも本を書いてくださいませんか。あなたのお話もお聞きしたいです。

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