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人の弱さについて

小学生の頃から、わたしは人間の生き方や他人の行動、心理に関心を抱きつつ、また抱かざるを得ないことに苦心しつつ、そのために自分の中につくられていった人間という存在について嫌気がさしていた。

なぜ、自分の捉えた人間の存在に嫌気が差していたのかは話すと長くなるので別に機会があれば寄稿することにする。

わたしが高校生の時から十年以上かけて時折、考えたり考えていなかったりを繰り返していた"人の弱さ"というものについて自分のために書き記しておこうと思う。

わたしは、自分と他人のことについて考え込んだり、他人に気を使い過ぎたり、困ってる人を見ると放って置けないことがある。

だからといって、わたしは自分のことを周りを気にしすぎてしまうダメなやつだという認識は持っていない。

この性質をわたしはむしろ自分自身で好いているのだ。

他人から周りのことに気を使い過ぎていないかと指摘された時、わたしは上のような話をする。すると大抵の場合、相手はわたしのことを「優しい」と評価してくれる。

確かにそうかもしれないが、そうなるとわたしは貧相な肉体にウン十万円もするスーツを着せられてしまったような人物画を想起し、違和感を催す。確かに外部から評価するならそれ以上の妥当な表現はなさそうだし、自己満足してるならそれ以上何か言う必要もなさそうだ。

とは言え、わたしは「優しい」という評価を額面通り受け取っているわけではない。社交辞令も含まれているだろうし、とりあえず耳心地のいい言葉を用意してくれているだけかもしれない。もしそうならそうやって言ってくれる人の方が優しいと思う。

すると、ここで優しさとは何かという別の疑問が生じる。だが、優しさについて議論をするのはまた今度にする。

今回はあくまでも人の弱さについて書くことにする。

冒頭ではわたし自身の体験の話をしたが、もしも仮にわたしが周りのことを気にしすぎたり、困ってる人を見て放って置けない性質のために何か不快な思いを感じて強いストレスを覚えたと仮定する。

たとえば、地下鉄で高齢者に席を譲ってあげようとしたら「年寄り扱いするな」と怒られたとか。

そういったときに、「あら、失礼」(この人は怒りっぽいけど元気なら座らなくても良いか)と気を取り直すことができるのか、それとも「はいぃ…」(そんな怒らなくても…とりあえず座ってくれたらいいのに)といじけるのか、この精神のバランス力があるのかないのかがストレスに対抗する力になってくるだろうと思う。

別の言い方をすると、予測していない他人の反応に対して寛容さや応用力があるかどうかということだ。

あるいは先の例題で言えばそもそもの話として、自分の勝手な厚意を誰しもが感謝するわけではないのに、勝手に相手が感謝してくれるはずだという自分勝手な事実誤認をしているという問題もある。

事実誤認の問題については別の機会に述べることにするが、先の地下鉄での例題のような「自分は良かれと思ってやったのに」だとか、別に何かしたわけでもなく不幸な目にあった時に「自分は何も悪いことをしてないのに」と自分を守ろうとして「人生は難しい」だとか「生きづらい世の中だ」といった周りに原因を求める結論を性急に出して、生きることそのものに苦しむ人は事実誤認の傾向がある。

また、別の見方をしよう。

人には、それぞれに長所と短所がある。それらの多くが性格的なものからくるやむを得ないものだと思う人もいるだろう。実際そうかもしれないしそうだとしても(昨今では大人の発達障害というものもあるから一概には言えないだろうけれどもそうではない限りは)、わたしには思うところがある。

というのも、そのように安易に性格のせいにしてしまったがために、考えることと行動することを放棄してしまうことこそが人の弱さなのではないだろうか。

あれこれ考えたり、行動したりしてその結果うまくいかなくても試行錯誤してトライアンドエラーを繰り返すことができる人が本当に強い人だと私は考えている。

もしも、周りを気にしすぎて生きるのが辛い、自分を肯定できないということなのであれば、気にするのをやめるように方法論を考えてみる。試してみる。少しずつでも自分を変えていけば良い。それができないのであれば、それはもう自分の性質だと受け入れて、人助けの達人になれば良い。

どちらにも転がれず、苦しんでしまうのは変えようという努力が足りないか、自分の性質を受け入れる寛容さが足りないからだとも言える。

しかし、私はこの考え方を誰かに押し付けるつもりはないし、これが唯一の方法だとも思っていない。このような言論は今まさに自己の性格について思い悩んでいる人にっては毒にも薬にもなり得るかもしれない。

ただし、上に述べたような苦しみ(生きづらいと感じてしまう状態)について突き詰めて考えていくと、以下の事実に辿り着くしかないのではないかとわたしは思い至った。

すなわち、「この世界は自分のものではないのだから自分の思い通りにはいかない。現状に不満があるなら世の中を変えるか、自分を変えるか、世の中を受け入れるか、自分を受け入れるか、不満をこぼしながらほどほどに世界と自分を受け入れてほどほどに生きていくか、別の国・地域へ移住するか、世捨て人になって社会から逃避するか、自殺をしてこの世から逃げるという8つの方法しかない」という結論だ。細分化していくともっと分類できるだろうが大きく分けるとこれくらいしかないと思う。

(個人的に自殺は否定派なので盛り込みたくはないが、趣味を度外視するとそうなる)

この考え方を前提とするならば、世の中に対する不満ないしは自分に対する不満を平和的に解決あるいは解消したいのであれば、ありのままを受け入れるか社会か自分を変える努力をするしかなくなる。別にこれは悲嘆や諦観ではなく事実を正しく理解しようと努めた結果生まれた認識だ。

事実を正しく認識した結果、悲観的になるかどうかはその人次第だし、嘆いたところで仕方のないことで嘆くのも当人の自由で、嘆いた結果として何かをするのかしないのか、それが当人の問題となる。

そしてまたその問題をどうにかするために行動した結果うまくいかなかったときそれで挫けて、いじけてしまうのだとしたらそれは確かに心が弱いのだろう。

反対に失敗したとしても、それでも諦めずに努力を繰り返すことができるのならその人はよほど心の強い人だといえる。

つまり、わたしの定義する"人の弱さ"というのは、精神的な弾力がないことを意味する。精神的な弾力とは、『弾力』という言葉がイメージさせる通り、つぶされても形を変えて押し返し、自分の存在を肯定して保つ力だ。

精神的な弾力はさまざまな方法で養われるだろう。おそらく、具体的に精神修養のような形で体系化されたものを受講できた人はほとんどいないだろう。成長する過程で気づき、学び、挫折し、解決し、養われていったものだろう。

そうなるとたまたま養われないまま大人になってしまった人も大勢いるだろうと思われる。わたしにはこれは非常な問題だと思うのだが、病気や障がいはなく、残念なことにただ単に巡り合わせで精神が幼稚なまま成人している人の成長を支える社会システムは存在しない。むしろ、そうした人たちを食い物にする商法や怪し気な有料書籍は多数ある。

そうした人々はたまたまその先で巡り合わせで成長できるかどうか。あるいは、一生涯かけて子供のような振る舞いをして周りを困らせたり、相手にされなくなったり、とにかく本人も周りも幸せにならない可能性が存在しうる。

もし、自分が自分にとって最大の幸福を願うのであれば、そうした不幸な巡り合わせで大人になりきれなかった人々を救い、可能な限り多くの人を支えることがわたしにとっての理想である。

不幸な人を放置することは、自分にとっての不幸である。

たとえば、何も失うことのなくなった人を社会が冷たく放置するのならば、社会は必ずどこかでそうした人々から仕返しを受ける。しかも表面上、それは無差別に、かつ理不尽に行われる。例えばそれは強盗や強姦、無差別殺人、投身自殺といったような現れ方をする。そうした時に自分や自分の大切な人、直接は関わりはなくても前途有望な青年や、それまで何十年も社会に貢献してきた高齢者が巻き込まれることだってある。

しかし、世間的にはそうした身勝手な人々はごく少数の異常者であり、悪いのは異常者であるという考え方がある。

わたしはそれを否定しないが、それでは考え足りないと思う。それも言ってしまえば、わたしが先に述べた人の弱さの一つである。すなわち、現象の表象しか眺めず、思考停止をする行為だ。

念のために言っておくともちろん、わたしは犯罪や自殺を擁護しているわけではない。

ただ、わたしはそういった自分勝手な人々を糾弾できるほどに糾弾する人々は自分勝手な生き方をしていないと自負できるのだろうかと疑問がある。

自分勝手というのは何も傍若無人な振る舞いをしていることだけを指すのではない。あくまでも自分と自分の大切な人だけしか大切にしない言動のことでもある。

おそらく動物的にはある意味で自分の家族集団、グループだけを守り、維持することは正しいのだろう。もし、そのグループを支配するオスよりも強いオスが現れたらそのオスがグループを乗っ取り、より強い遺伝子を残す。

しかし、我々人間の多くはそのような弱肉強食の社会を望んでいるのだろうか? 弱肉強食なのであれば強者が勝つことは当然としても、虐げられた弱者たちが強者から何かを奪うこともあり得る。

もし、本当にすべての人間に自己責任の四文字が突きつけられるのであれば、病気や怪我の有無にも関わらず、現在不幸である人々にまで目を向けなければいけない。そうした人々から目を背けて一方通行の自己責任の四文字で切り捨てるのなら、その人もまた不幸な巡り合わせで突然無差別に命を取られることも自己責任という言葉の範囲に含まれるのだ。

だから、わたしは困窮している人や罪を犯した者たちに対してその行いは自己責任だとはとても言えない。せいぜい言えるとしたら、「きっと自己責任である部分も大いにあるだろう。しかし、周囲の人々や社会は彼に手を差し伸べたのか?」という推測と問題提起くらいである。

もし、彼が救いの手すらも跳ね除けていた事実があったのなら、そのときこそ確かに自己責任と言えるだろう。

が、大抵の人は自分のことで手一杯なのが事実である。他人を救えるのは同じくらい苦しんだことがあり、なおかつ余裕がある人だけだ。

 そのような人は実に稀である。そして、わたしはほどほどに社会に不満を抱きつつ、ほどほどに生きてはいるが、そのことにも不満を抱きつつ水面の下では足掻いている。

先日、その足掻きが幸いにも幾分か報われたことがあった。人助けは今に始まったことではなかったが、二年以上かかって成就したことは初めてのことだった……。

この話はまた次の記事に。

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