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学びの素は、すべての中に。

ビジネス系の本やサイトなどで「浦島太郎に学ぶ正しいリスクマネジメント」みたいな見出しが出てくると「ネタに困ってきてるぽいな」と感じる。

こういった「誰でも知っているものに意外な学びがある」というのは一定の人気パターンと思われる。何故かといえば入口が入りやすいからだ。上記の例でいえば「浦島太郎は知っているけど何かそんな教訓があったかな?」と興味を引くことができれば成功といえる。

例えば「亀を助けた後でどこへ連れていかれるのかを確認しなかったのが浦島太郎のミス。最初に細かいトラブルを起こしておいてそこをきっかけにアクションに持ち込む例も見られます。気を付けましょう」みたいに解説したりする。
まぁ…でもそこそこ無理矢理感はあるな。冷静に考えれば昔話に大真面目にツッコんだところでどうなんだ、とも思うし、そういうことをツッコみだすと「ドラえもんはそもそも『ソノウソホント』があれば全部実現できるから他の道具はいらない」みたいな話にまで発展してしまう(USO800でも可)。

「実は桃太郎は鬼からしてみると侵略者の話にもなり得る!」とか
「スラムダンクの5人の役割分担こそがチーム戦のモデルだ!」とか
「こち亀の両津から柔軟な思考の大切さと強靭さを学べる!」とか
まぁいろいろ考えていけば出てきそうなのだが、これらは一つの言葉に集約される。
「捉え方次第」であると。

桃太郎が勧善懲悪の話だと捉えるか、実は鬼の存在には少数民族との争いが表されているのではないかと捉えるか、それは「その人がそう考えた」話である。

ネットで有名なフレーズに「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」というのがある(元々「少女ファイト」という漫画のセリフ)。
だから別にどれが間違いでどれが正しいというものでもない。その人がそう感じ取ってそう書いたという話なので、読んだ人が違うと思えばそれでいいし、確かにそうだと思えばそれでよい。ま、上記のセリフでは思い込みで他人の意見を聞かない奴に対してのセリフではあったが。
ただ感じ取ったとはいっても「売れてる本に書いてあるから」とか「ホ●エモンが勧めていたから」みたいな要素が入ってくるともう自分の判断ではなくなってくる。まぁ実際のところは何にも影響されずに自分の感覚だけを信じ抜く、てのも難しいと思うが。

ただ「こういうことを学べた!」と思ったならそれでいいと思うし、学びのタネをあちこちに見つけられるのは有意義なことだろう。人格者ほど他の人の知識や技術に敬意を払うものだ。小物だと「大会社の部長がなぜ下請け業者に敬語を使わなければならん!」みたいになったりするけども。
ド新人などの挨拶にも必ず立って敬語で挨拶を返したという渡哲也のエピソードでも見習うべきである。あれ、何の話だこれは。

まあとにかく「●●に学ぶ」というのはだいたいその人の主張のためにいろんな題材を使ってるパターンが多いよな、という話。やたらとワンピースに学ぶのもそういうことだ。

そういえば以前そのネタも書いてたなぁ。


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