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受け手として生きるか、送り手として生きるか、あるいは。

子どものころ、藤子不二雄作品(というか主にドラえもん)を読み漁っていた。そのほかにも漫画をたくさん読んでいたので、小さい頃は「漫画家になる」という夢があった。これが普通の本も読むようになって、国語の授業で作文がほめられたりするといい気になり、小学校卒業アルバムには「作家になりたい」と書いた。

そして現在、作家にはなっていないのだが、コピーライターとして働いた時期もあったし、ラジオCMやキャッチコピー・川柳など文章系の公募を楽しんだりもしている。ネットで応募しだすとわかるのが「無名でもすごい人がいっぱいいる」ということだ。ぶっちゃけ、公募でコンスタントに受賞するというのはすごく難しい。川柳にしても短編小説にしても、倍率が非常に高いからだ。しかし、そんな中でも異様な受賞率の人もいたりして、「いや~プロになればいいのに」と思ったりするが、そう簡単でもないようで。まあ実際、プロになるということは他の人とやり取りしたり読者を意識したり、「全部ひとりで気楽にやれる」という部分がなくなるので、発想力や構築力がプロ並みにある人でもやりたくない人もいるのかもしれない。また仮に本当にプロになろうとしても、公募というものは「優勝=プロデビュー」というものでもないので、結局自分から動く必要があるのもハードルだ。例えば宣伝会議賞でグランプリを獲ったので電通からスカウトに来ました、みたいなことはない。元々広告業界で働いている人がそれをきっかけに転職活動することならあるかもしれないが。

しかしプロアマ問わず、他の人の作品を見て「これは敵わない!」と思うたびに、もう応募自体をやめようかなと思うことがある。いわば「受け手」として楽しんでいくようにするということだ。そうすると「送り手」として意識しなくてよいので、より純粋に、無責任に楽しめるのではという考え方。その一方で、「送り手」をめざすことをやめてしまうと、そもそもそのジャンルに興味自体なくなってしまうのではという思いもある。まあそんなことを言いながら敗北を認める形になるのがイヤなだけかもしれないが。小学生の頃の思いに対して「ごめん、無理だったわ」と決着をつけてもいいんだけど、別に。このへん、特にタイムリミットがあるわけでもないのが難しいところだ。定年後に作家デビューしましたとか子育て落ち着いてから作家目指しましたとかもあるし。と言いつつそういう人たちはもともと一人で書いていたんだろうけども。

ただ、世の送り手たちは、ひたすら自分の作品だけ書いていて他の作品を読まないわけではない。「大奥」「きのう何食べた?」などで知られるよしながふみの対談本を読んだときに、「この人、受け手としての漫画自体の知識もとんでもない」と思ったものだ。「大奥」にしても「誰かが描いてくれるならそれを読みたいが、描いてくれないので仕方なく自分で描いている」というようなことを語っていた。

クリエイターが他のクリエイターに刺激を受けてさらに自分の作品を高めていくというのは健全なサイクルだ。とはいえそれはプロであるから、という点も否めない。素人趣味でやってるものは別にやめても誰にも文句言われないし、楽しくないなら無理にやらなければよい。もちろん、やること自体が楽しいなら結果が出なかろうと圧倒的に敗北しようと自由にやればよい。
…といったことをぐるぐる考えてしまうのは、最近久しぶりに公募にチャレンジしようとして何も浮かばないな~と思ったからである。
ちなみに昨日の日曜日は子供たちとマインクラフトダンジョンズやってた。これはこれで楽しかったので「サボってしまった」という感覚はない。

実際、あと1週間ほどで現在1ページも書いてない販促コンペに参加できるようなものができるとも思えないが…まあ、わかりませんよ?(匂わせ)

サポートいただけた場合、新しい刺激を得るため、様々なインプットに使用させていただきます。その後アウトプットに活かします、たぶん。