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武術は総合格闘技

◉平直行師が、裸馬に乗ることで得た微妙な身体感覚や身体操作について、語っておられます。モンゴルでの経験が大きかったのでしょうけれど。騎馬でも、鞍と鐙(あぶみ)がある状態と、裸馬ではまったく違うようで。当然ですね。鐙が普及して一般化するまで、裸馬に乗るというのは騎馬民族が子供の頃から生活の一部として身に付けるしかなかった、とても高度な技術でしたから。

ビクトル古賀先生が俺の技は 騎馬民族の技だよ。 そう聞かせてくれたことがあります。 馬に乗るのは全身の角度 手綱で馬と繋がる肘の角度 何か見えてきたのです。 古賀先生に話聞きたいです。 ストライプル 入会金無料キャンペーン実施中 見...

Posted by 平 直行 on Saturday, January 16, 2021

鐙自体が、そもそも馬に乗るために脚を掛けるステップでしかなく、当初は片側にしかなかったそうで。これを両側に付けて、脚を置くと姿勢がとても安定するし、馬を乗りこなすのにとても簡単になったので、世界中で騎兵が編成できたわけで。アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)には、ブーケパロスという愛馬がいて、騎馬の壁画も残っていますが。重装歩兵が主力で、長槍部隊のファランクスが強さの秘密。

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■弓馬の道が武士の本道■

日本でも、馬術はある時期まで武士の必須の技術でした。ウチの田舎の高山町の流鏑馬神事など、源平の昔の古式を伝えていますが。馬術と騎射というのは、武士の表芸。今川義元や徳川家康の異名が、海道一の弓取りというのも、弓矢の弓術というのがいかに武士にとってメインウェポンであったか。飛び道具とは卑怯なり、というのは太平の江戸時代の価値観でしょうね、たぶん。

江戸時代は、江戸府内での弓矢の使用が厳しく制限されていて、忠臣蔵で知られる赤穂事件の吉良邸襲撃でも、半弓という小さな弓を持っていたのが問題視されています。入り鉄砲出女で監視された火縄銃はもちろんですが、弓矢はそれだけ殺傷力が高かったわけで。殺傷力の高さという点で、手持ちの武器では槍が最強。槍や薙刀といった長い柄を持ったポールウェポンは、ヨーロッパでも中国でも、武器の王様扱い。

ところが現代武術って、馬術・弓術・槍術って軽視されていますよね。剣術と柔術は、剣道と柔道という形で残っていますし、機動隊は杖術も残っています。砲術は拳銃と狙撃用の形で、警官と自衛官には残っています。馬術は白バイや自衛隊のモトクロスタイプ、あるいはパトカーや戦車などに残っているとも言えますが。平師の裸馬を乗りこなす感覚は、単なる移動手段とは異なる、感覚部分の話です。

■徒手術と武器術は通底す■

槍術も、銃剣並びに銃剣道という形で、残ってはいますが。現代の銃剣と、2mから4mもある長大な槍を持っての身体操作は、やはり違うのでしょう。田英海こと山田英司元武術編集長も、長大な槍を持ったときの重心バランスは、やはり徒手空拳の状態のそれとは、かなり異なる旨を指摘されていましたっけ。であるなら、人馬一体となった馬術の身体操作も、バイクや自動車とは別物でしょう。

山本貴嗣先生も『セイバーキャッツ』で指摘されていましたが、そもそも手脚の動かし方自体が、もう江戸時代と近代以降では、別物ですしね。ただ、武術の動きや型、口訣を知る中で、そういう残り香は感じることができるのでしょう。そう考えると、馬術や弓術や槍術は、剣術や柔術とセットで学ぶべきなのかなと。だってそれらは、セットで使えるいうに体系化されてることが多いはずですから。

中国武術の拳法でも、縦拳の打撃が多いのは、それが武器術の素振りと同じ筋肉や動かし方をする、つまり剣術などの素振りの練習でパンチ力が上がるようになってるから。ボクサーでも、木こりの斧を使うとパンチ力が上がるとか、タイヤをハンマーで叩くトレーニングがあるように、インパクトの瞬間の手の締め、手の内と呼ばれる部分は通底するんですよね。だからこそ、セットで学ぶべきなのでしょう。

■専門化しすぎな現代武道■

しかし武術ということを考えるに、現代武術ってスポーツ化してるな、と。この場合のスポーツ化とは、競技化とかゲーム化という意味ではなく。悪しき紫綬褒章主義というか……。何かひとつに打ち込むことを是として、悪い意味で専門バカになってる気がします。言っておきますが、紫綬褒章をもらうプロフェッショナルを、否定してる訳ではないですよ。むしろ、職人や職人技は大好きですから。

これは、剣道なら剣道だけ、柔道なら柔道だけをおこなって、他の競技をやらない姿勢。なんでしょうかね、江戸時代は総合的にイロイロやるのが普通だったのに。近代体育が入ってきて、誤った専門教育が普及したのか。嘉納治五郎は空手や合気道など、他競技の研究に余念がなかったのに。専門化することで技術レベルが上がるのは確かですが、排除する理由はないんですけどねぇ……。割と柔道家には、排他的な人が多い印象です。

でも、アメリカだと四大スポーツを中心に、万遍なくやるのが普通。日本は野球ばっかりやらせて、促成栽培でリトルリーグや高校レベルだとアメリカにも勝つけれど、プロレベルで大きな差が付きますね。野球とバスケや、野球とフットボールのように、複数の種目でドラフトに掛かる大学生も多いのに比べると、専門バカ育成が過ぎる気がします。甲子園や六大学で、手っ取り早く結果を出そうとするからでしょう。

■大きく育てるには総合的に■

原辰徳監督の父親の原貢氏は、息子には小学校では器械体操をやらせて運動神経全般を鍛え、中学では陸上部で身体全体の基礎体力を鍛え、高校から野球に専念させたとか。こういうことをやらせずに、技術技術で小手先のテクニックを鍛えるか、池田高校の蔦監督のようにウェイトトレと金属バットに特化した野球をやらせても、才能がある人間以外は小さくまとまって終わりですから。

武術も、本来は総合格闘技やトライアスロン的に、イロイロやるべきなんですよね。千葉周作の北辰一刀流では、居着くことを嫌いますが。専門バカになるのって、この居着くことにある意味で重なるんですよね。産業用ロボットも、ある製品の生産専門のロボットは効率は良いけれど、製品が変わると使えなくなり、生産ラインを変えないといけない。でも、ロボットのプログラムを変えるだけのタイプは、長い目で見ると効率的。

けっきょく、オールラウンドというのは、そういうことなんでしょう。武芸も昔は武芸四門、あるいは武芸十八般と、総合的にやるのが普通だったので。実際、尾張藩の下級~中級武士であった朝日文左衛門は、剣術や弓術、砲術に居合い、据え物斬りまで多数やっています。ま、本人は怠け者でしたが。でも得意科目を軸にしつつ、総合的にやる。これは武術だけでなく学問も芸術も、学際的に・総合的にやるのがこれからは大事かと。専門性と学際性、両方を両輪にして。

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